オーストリア帝国とは? わかりやすく解説

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オーストリア帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/30 22:57 UTC 版)

オーストリア帝国
Kaisertum Österreich (ドイツ語)
Austrian Empire (英語)
オーストリアの位置
オーストリア帝国の領土(1815年)
国歌:Gott erhalte Franz den Kaiser(ドイツ語)
神よ、皇帝フランツを守り給え
公用語 ドイツ語(オーストリア・ドイツ語、バイエルン・オーストリア語)
言語 ハンガリー語、チェコ語、ポーランド語、ルテニア語、ルーマニア語、スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、イタリア語
国教 カトリック
宗教 ルター派、カルヴァン派、東方正教、ユダヤ教
首都 ウィーン
皇帝
1804年 - 1835年 フランツ1世
1835年 - 1848年 フェルディナント1世
1848年 - 1867年 フランツ・ヨーゼフ1世
首相
1821年 - 1848年 国家宰相 クレメンス・ヴェンツェル・フォン・メッテルニヒ(初代)
1867年 - 1867年 閣僚評議会議長 フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(最後)
面積
1804年 698,700km²
人口
1804年 約21,200,000人
1848年[1] 約33,700,000人
変遷
成立 1804年8月11日
神聖ローマ帝国の解体 1806年8月6日
ウィーン会議 1815年6月15日
オーストリア帝国における1848年革命(英語版) 1848年3月10日
普墺戦争 1866年6月14日
アウスグライヒ 1867年3月30日
通貨 グルデン/フローリン
マリア・テレジア・ターラー(1804〜1857)
ヴェレインスターラー(英語版)(1857〜1867)
先代 次代
オーストリアの歴史
オーストリアの国章
この記事はシリーズの一部です。
先史時代から中世前半
ハルシュタット文化
属州ノリクム
マルコマンニ
サモ王国
カランタニア公国
オーストリア辺境伯領
バーベンベルク家、ザルツブルク大司教領、ケルンテン公国、シュタイアーマルク公国
小特許状
ハプスブルク時代
ハプスブルク家
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ハプスブルク君主国
オーストリア帝国
ドイツ連邦
オーストリア=ハンガリー帝国
第一次世界大戦
サラエヴォ事件
第一次世界大戦
両大戦間期
オーストリア革命
ドイツ=オーストリア共和国
第一共和国
オーストリア連邦国
アンシュルス
第二次世界大戦
ナチズム期
第二次世界大戦
戦後
連合軍軍政期
オーストリア共和国
関連項目
ドイツの歴史
リヒテンシュタインの歴史
ハンガリーの歴史

オーストリア ポータル

オーストリア帝国(オーストリアていこく、ドイツ語: Kaisertum Österreich、当時の公式表記は Kaiserthum Österreich)は、1804年の成立から1867年のオーストリア=ハンガリー帝国への改組まで、オーストリアのハプスブルク=ロートリンゲン家(以下、単に「ハプスブルク家」と呼ぶ)がオーストリア皇帝として支配した多民族国家である。

前身のオーストリア大公国や、ボヘミア王国・ハンガリー王国などの同君連合国家群だった時代と、オーストリア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の時代とをあわせて、ハプスブルク帝国と総称される。

厳密には第一次世界大戦敗戦までオーストリア帝国は存続しているが、本記事ではアウスグライヒまでを扱う。

概要

17世紀初頭から続いた三十年戦争を経て成立したヴェストファーレン体制によって、オランダやスイスの独立、神聖ローマ帝国内の諸邦に自治権が与えられるなど、神聖ローマ帝国の権力は低くなった。また、この体制によって、カトリック教会とプロテスタント教会が対等な関係にあることが保証され、宗教国家としての神聖ローマ帝国は権威を失うこととなる。さらに18世紀のオーストリア継承戦争や七年戦争などによって、神聖ローマ皇帝の座を事実上世襲していたオーストリア大公国自体の弱体化などが重なったことによって、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかとなった。

また、その後のナポレオン第一執政期において、ナポレオン戦争によってダメージを負ったハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国を中核とする支配領域(ハプスブルク帝国)をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。

オーストリア帝国の時代の前半はナポレオン戦争とその後のメッテルニヒ時代であり、後半は1848年「諸国民の春」によるウィーン体制崩壊後のフランツ・ヨーゼフ1世時代前半である。この時代はまたドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く大ドイツ主義」か、「プロイセン王を戴く小ドイツ主義」かで揺れ動いていた。広大な非ドイツ人地域の分離を前提とする大ドイツ主義はオーストリアには迷惑千万であり、さりとて自らが統一ドイツから除外されてしまう小ドイツ主義も論外、非ドイツ人地域も包含した中欧帝国構想は時代遅れというトリレンマ状態にあった。1866年の普墺戦争にオーストリアは完敗して大ドイツ主義も中欧帝国構想も挫折、最終的にオーストリアは統一ドイツから除外される。また1848年革命に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ人に次ぐ大勢力であったハンガリー系(マジャル人)との妥協(アウスグライヒ)を選択し、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足した。

なお、二重帝国の成立後もオーストリア帝国は第一次世界大戦に敗戦するまで存続している。「オーストリア=ハンガリー帝国」とは、オーストリア帝国と、アウスグライヒによってオーストリア帝国から形式的に独立したハンガリー王国とによる同君連合の総称である。すなわち、アウスグライヒ以後もハンガリー王国以外の領域は引き続きオーストリア帝国であった。

歴史

背景

フランス革命戦争中の1797年に結ばれたカンポ・フォルミオ条約にて、ロンバルディアやネーデルラント、ライン川西岸などの割譲を強いられた神聖ローマ帝国は、割譲地の諸侯に代わりとなる土地としてライン川東岸の大司教領などを付与することになり、領土が大きく変化したことでフランツ2世が「ドイツ王」選挙を勝ち取ることは不可能に近くなった[2]。1804年5月にナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位すると、対するフランツ2世も8月にオーストリア皇帝フランツ1世として即位宣言した[3][4]。

対仏戦争からウィーン会議まで

ナポレオン戦争では対仏大同盟陣営として参戦したオーストリア帝国であったが、早くも1805年には首都ウィーンがフランスに占拠され、同年末のアウステルリッツの戦いでも敗北を喫した[4]。その後のプレスブルクの和約ではチロル、フォアアールベルク、ヴェネツィアを喪失する結果となり、さらに翌1806年にはナポレオンがライン同盟を成立させたことでドイツ諸侯がオーストリアから離反、神聖ローマ帝国は名実ともに解体された[5][4]。オーストリア皇帝としての即位も神聖ローマ帝国の解体も、ナポレオンによる野心からウィーンの安全を守るための意図があった[6]。

1809年、オーストリアは単身北イタリアに進攻するもナポレオンがウィーンを再占領、カール・フォン・エスターライヒ=テシェン(カール大公)はアスペルン・エスリンクの戦いにてフランス軍を撃破したがヴァグラムの戦いでは敗れ、シェーンブルンの和約ではザルツブルクをバイエルンに、クラクフやルブリンをワルシャワ公国に、ガリツィア東部の一部をロシア帝国に割譲、さらに失ったアドリア海沿岸部にはフランス領イリュリア州が誕生した[7][4]。解任されたカール大公に代わりクレメンス・フォン・メッテルニヒが指揮官に任命されると、彼は当初フランスに対し懐柔策をとってナポレオンにフランツ1世の娘マリー・ルイーゼを嫁がせた[4]。ナポレオン側にとってもこの婚姻は、成り上がりの身分に過ぎない彼が伝統あるハプスブルク家と結びつくことでその権力を正当化しようという思惑があった[8]。

その後に1812年ロシア戦役が開始されると、オーストリアはフランス陣営として参戦を強いられたが敗戦。ロシア再侵攻を企図していたナポレオンはオーストリア軍の増援を要求したが[9]、メッテルニヒは動員が可能だとしつつもそれはフランスのためではなくオーストリア防衛に使わねばならないとして拒否した[10]。1813年2月末になると、一方のプロイセンは1806年以前に喪失した領土を回復することが保証されたカリシュ条約(英語版)をロシアと結び、対仏参戦を決定した[11]。しかしプロイセン・ロシア連合軍は、5月にリュツェンの戦いとバウツェンの戦い(英語版)にて敗北し[12]、その後6月4日にオーストリアの仲介で、7月20日までの休戦を定めたプレスヴィッツ休戦協定(英語版)がフランスと結ばれた[13]。さらにメッテルニヒは6月中に、プロイセンおよびロシアとライヒェンバッハ条約 (1813年)を結び、ワルシャワ公国の解体、ハンブルクとリューベックの自由都市化、イリュリア州のオーストリア復帰などといった条件をフランスが呑まない場合において、オーストリアの対仏参戦を約束した[14]。結果的にはそうした妥協策の提案は失敗に終わったため、オーストリアは第六次対仏大同盟に加わることとなった[15][16]。またフランスとは、調停を理由にした仏墺同盟の解消と、8月10日までの休戦延長を取り決めた[17]。8月11日、オーストリアは正式に対仏参戦することになり[18]、クルムの戦い(英語版)やアルテンブルクの戦い(英語版)で勝利、9月にはテプリッツ条約にてライン川までのドイツ諸国解放とそこでの主権国家樹立を定めた[19]。10月にライプツィヒの戦いで同盟軍がフランスに勝利すると、メッテルニヒは翌11月にフランクフルト提案(英語版)をナポレオンに出し、提案の受け入れを以て交渉を始めることを通達した一方、ナポレオンは自軍増強の時間稼ぎのために提案受諾を12月2日まで遅らせつつ[20]、最終的にはこれを拒んだ。

1814年2月1日にナポレオンがラ・ロティエールの戦い(英語版)で敗北を喫した数日後にシャティヨン会議(英語版)が開かれたが、パリを目前にしながらフランスとの講話に対する同盟諸国の見解は割れていた[21]。特にロシアはパリ進撃後に名士会議を開かせることでフランスの支配者を決めるよう強硬な提案を示したが、メッテルニヒとイギリスのカースルレーが反対することでロシアを孤立させ、ナポレオンが破られた場合はブルボン家と交渉することやパリ占領に際してはロシア軍指揮官を受け入れること、但し同盟諸国の代表による会議が行政権を持つ旨などに同意させ、さもなくばオーストリア軍を撤退させると脅した[22]。この間、プロイセン軍を指揮していたゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘルが六日間の戦役で一連の敗北を喫すると、ナポレオンがまだ余力を残していることが判明し再び休戦状態に入った[23]。

ウィーン会議に出席したヨーロッパ諸国の外交官ら。1がイギリスのウェルズリー、6がメッテルニヒ、22がフランスのタレーラン

3月に入ると同盟諸国間でショーモン条約が締結され、各国が15万人ずつの軍を動員すること、イギリスが500万ポンドの補助金を供出すること、20年間の条約の有効期間中にフランスの侵攻があった際には各国が6万ずつ軍を動員することなどが定められた[24]。このほか、追加条項にてオランダ、スイス、ドイツ諸国などの独立をも定め、特にドイツについては主権国家による連邦を成立させることで、プロイセンによる拡大や統一の企図を妨げた[25]。3月9日のランの戦い(英語版)でブリュッヘル軍が勝利したことで、戦争の大勢は決定的となり[26]、ついに3月31日、パリの戦い (1814年)(英語版)を経てロシア軍がパリに入城した[27]。4月6日、タレーランとロシアのアレクサンドル1世の後援の下、フランス上院はルイ18世を国王とする新憲法を可決した[27]。フォンテーヌブロー条約でナポレオンの退位が、第一次パリ条約でフランスとの講話が決められ[28]、ナポレオンはエルバ島に追放[注 1]されて9月からメッテルニヒ主催の下ウィーン会議が開かれた[16]。

各国の意見がまとまらず会議は長引き、特にポーランド分割とザクセンの処遇に関しては参加国間の衝突まで有り得るとされたが、ナポレオン脱獄の一報が届くと各国軍はワーテルローの戦いに備えた[16]。会議の結果として、1815年6月8日にドイツ同盟規約が採択され領邦国家35ヵ国と自由都市4ヵ所からなるドイツ連邦が誕生、オーストリア皇帝が代表する同盟議会がフランクフルトに設置された[16]。オーストリアの主権はドイツ地域において保証されたほか、チロルやロンバルディア、ヴェネツィアを含むアドリア海沿岸部を回復、ポーランドにおいてはガリツィアとテルノーピリを獲得したが、ネーデルラントはネーデルラント連合王国として独立した[30][31][32]。

戦後、カースルレーはイギリスの内閣を説得することで、またプロイセンとそれを支持したドイツ諸国の過激な主張を非難することでそれらの懲罰的要求を退けたが、フランスはそれまでの戦費やオランダにある要塞の建設費を負担させられ、賠償金7億フランを課せられたほか、条約履行とルイ18世保護を名目に北フランスには占領軍が留まることになった[33](第二次パリ条約)。ザールルイなどの第一次パリ条約で認められていた領土もフランスは喪失したが、3年以内に賠償金は完済され占領軍も撤収した[34]。また、第二次パリ条約と同じくして、オーストリア、プロイセン、イギリス、ロシアによる四国同盟も結ばれ、ボナパルト一族をフランス王位から排することや、1822年まで定期的に開かれることになった同盟国による会議などを定めた[35]。9月にはロシアのアレクサンドル1世が、君主にこそ相応しく、君主のみが署名するという神聖同盟の草案を提示し、メッテルニヒはそれを馬鹿げたものだと考えていたが、オーストリアの精神と矛盾しないよう一部の文言を訂正した上でこれを受け入れた[36]。カースルレーは神聖同盟を「崇高な神秘主義とナンセンスの作品である」と評価しており、四国同盟とは異なりイギリスがこれに加盟することはなかった[37]。

メッテルニヒ時代と三月前期

第二次パリ条約から間もない時期は、ヨーロッパの安定がその生存条件であったオーストリアと、安定がヨーロッパ大陸における利益であったイギリスは、強いオーストリアが勢力均衡の不可欠な構成要素であるという見解でも一致しており、両国はロシアを脅威と見ていた[38]。1818年の アーヘン会議(エイクス・ラ・シャペル会議とも)では、同盟諸国による駐留軍の撤収や、同盟とフランスの関係の調整などについて討議された[39]。四国同盟が定めた会議形式にフランスが加わることも決まったが(五国同盟)、これは同盟諸国がフランスでの革命に対抗するためにフランス国王に意見を求める手段としてのみ正当化された[40]。ロシアのアレクサンドル1世は、四国同盟をヨーロッパの安定に不可欠なものであることを明言し、同盟の解消は犯罪になるとまで述べたが、同盟は外国による侵略と国内の革命運動に対応しそれらからヨーロッパを守る責任があると主張した[41]。しかし、これは集団安全保障の枠組内にある諸国に対する介入理論でもあり、メッテルニヒとカースルレーがこれに反発したためロシアは主張を取り下げた[42]。

1819年、ロシアの枢密顧問官アウグスト・フォン・コツェブー(英語版)が殺害された事件を契機にドイツ連邦はカールスバート決議を発出、ナショナリズムの中枢であった大学への監視や検閲が強化された[32]。決議は、20ページ以下の出版物に対する検閲や好ましくないとされた出版物を連邦内の全国にて発禁処分とすることを定め、特にオーストリアはあらゆる出版物についての拒否権を有することになった[43]。大学に対しては、政府が各代表を任命し講義内容の監視と規律が強化されることになり、マインツに設置された中央委員会が革命運動を調査していくことにもなった[43]。また、イェーナ大学で発足したドイツ系学生同盟ブルシェンシャフトをはじめとする活動などが禁じられたほか諜報機関が設立されるなど、オーストリアは警察国家としての側面を持ち始めた[32]。とはいえ、検閲制度が必ずしも効果的だったわけではなく、教養のある中産階級は海外からの出版物にアクセスできたうえ、なかでも政治思想に関心を持った人々は自由主義に傾倒していった[44]。

1820年、スペイン立憲革命に影響された両シチリア王国においてシチリア革命 (1820年)が勃興しフェルディナンド1世 (両シチリア王)が憲法を発布すると、アレクサンドル1世の提案により同盟諸国がこれに対処するためのトロッパウ会議が開かれることになった[45]。メッテルニヒは最初の本会議にて、国内問題が外国に影響を与えない限りにおいては他国が介入する余地はないと述べ、自国の勢力圏内であるシチリアの革命を鎮圧しようと試みた[46]。一方のロシア外相イオアニス・カポディストリアスは、その介入は自衛権によるものというより1814〜15年の諸条約に基づいたものであるべきだと主張したが、メッテルニヒは条約の解釈を否定し、現地の王に行動の自由を取り戻させることで諸国の協力体制に引き戻すことこそが同盟諸国の責務だとした[47]。会議は両シチリア王と革命派の間をローマ教皇が取り持つことを求め[48]、翌1821年1月に開かれたライバッハ会議(英語版)では、メッテルニヒが草稿を書いた演説文を両シチリア王が読み上げて同盟諸国の支援を仰いだ[49]。メッテルニヒは同盟諸国の意に沿わないような憲法を棄却するよう述べ、軍事介入による革命の鎮静化が決議された[50]。オーストリア軍は3月7日のリエーティの戦い(英語版)で反乱軍に勝利すると3月24日にはナポリ入りし、3月12日にはサルデーニャ王国でピエモンテ革命が起きたが、同軍は4月8日にこれも制圧した[51][52]。メッテルニヒはこの年に外相のまま宰相となった[53]。

ライバッハ会議の閉会前になると、今度はダニューブ公領(英語版)にてオスマン帝国に対する反乱が起きたとの報告が入った[54](ギリシャ独立戦争の勃発)。ロシアはブカレスト条約 (1812年)にてその公領を保護下に置く権利を得ていた一方、その総督の任命権はオスマン側にあり、総督の選出元はギリシアの貴族階級から、そしてさらにロシアがその任命を承認するという複雑な取り決めがされていた[55]。この問題の初期段階でメッテルニヒは、ロシアの注意を東方に逸らすための陰謀であるとアレクサンドル1世に説得することで非介入を徹底させ、さらにロシアが同盟諸国と別行動をしない確約までさせたが[56]、(ギリシャ独立戦争に関する問題を議論するために開かれたはずの)ヴェローナ会議(英語版)は、結果的にスペインの革命への干渉に主な焦点が当てられた[57]。

1830年のフランス7月革命に影響され、1831年と1832年には教会国家やパルマ公国、モデナ=レッジョ公国でも反乱が起きたが(中部イタリア革命)、これらもオーストリア軍が鎮圧に当たり[52][58]、波及する革命への対応としてロンドン会議が開かれる。1833年には、ヨーロッパで起きた諸革命への対抗とオスマン帝国に対する不干渉を確認するため、ロシアとの間でムニホヴォ・フラジシチェにて協定が結ばれた(ミュンヒェングレーツ会議(ドイツ語版))[57]。1835年2月に皇帝フランツ1世が死去すると、メッテルニヒが以前起草した遺書に基づき[59]、フェルディナント1世が即位した。てんかん持ちであったため政務に適さなかった新皇帝を据えることで、メッテルニヒは事実上の帝国の支配者になろうとしていた[60]。1840年にはエジプト・オスマン戦争 (1839年-1841年)(英語版)に端を発する1840年東方危機(英語版)が発生し、オーストリアはイギリスなどとともにオスマン帝国の支援に回った。

1840年代に入ると、ハンガリーはマジャル人の民族国家だと主張したコシュート・ラヨシュが台頭し、ハンガリー議会は1844年にマジャル語を政務、法律、公教育における唯一のものとする言語法を制定した[61]。プロテスタントに対する全面的な平等や、貴族の土地を所有できる権利と公職を手に入れられる権利を万人に付与した法律が作られたのもこの時期であった[62]。1847年には議会議員に選出されたコシュートを帝国政府は危険視していたが、言語法がウィーンと通信する際はドイツ語を用いるとしていたため法令を黙認した[63]。また、同年12月にはイタリア北部のロンバルド=ヴェネト王国にてタバコ税をめぐる大規模な騒乱が起きたほか、1845年にアイルランドを発端としたジャガイモ飢饉の影響も長引いており(ヨーロッパにおけるジャガイモ危機(英語版))[64]、帝国のみならずヨーロッパ全体が政治的にも経済的にも危機を迎えようとしていた。1846年にはクラクフ蜂起(英語版)に触発されたガリツィア農民蜂起(英語版)が発生、すぐに鎮圧されたが、この反乱中の帝国政府は労働地代を廃止せざるを得なかった[65]。

1848年革命

ウィーンの学生らによるアカデミー軍はメッテルニヒ政権崩壊において重要な役割を果たし、彼の罷免を促した

1848年にフランスで2月革命が生じると、革命の影響はオーストリア帝国内各地にも波及したが、自由主義思想の広がりやイタリア地域での民族運動、賦役制度に異を唱えるガリツィア農民の蜂起など、革命が起きる風土はかねてより徐々に醸成されていた[66]。3月10日朝、以前提出されていた請願書の回答を求め、ヘレンガッセ(英語版)にある州議会場へ向けてウィーン大学から学生らのデモ行進が出発した[67]。議会場の中庭ではユダヤ人医師アドルフ・フィッシュホーフ(英語版)が検閲中止や憲法発布、宣誓裁判などを求める「自由の演説」をオーストリアで初めて行い、ハンガリー議会でのコシュートの演説も朗読された[67]。こうした運動の話が広まるとウィーン市城壁外から労働者らが集結し、メッテルニヒは彼らに対抗して閉門し軍を動員させ、ヘレンガッセのデモ隊は銃弾を浴び5名の死者が出た[67]。市内から締め出された労働者らは武装して徴税所や工場の機械を破壊または放火し、官邸からその様子を見ていたメッテルニヒは辞任して密かにロンドンに亡命、皇帝フェルディナント1世が憲法発布と検閲中止、そして出版の自由を約束して軍を退かせたことで3月の革命は沈静化した[68]。学生らは街区を越えたアカデミー軍(英語版)を組織し、市内では軍に代わり街区ごとの国民軍が治安維持に当たったが、市外の革命運動は国民軍の弾圧対象となった[69]。ハンガリーのブラチスラヴァではウィーンに先駆けてコシュートがハンガリー民族の自由と立憲主義国家を要求しており、憲法・自由・民族について定めた三月法を生み出した[70]。同じころのプラハでも聖ヴァーツラフ広場にて集会が開かれ市民委員会による自由を求める皇帝への請願書が起草、ガリツィアでは民衆蜂起が勃発しポーランド人独立を求める委員会が設置された[71][69]。しかし、プラハでの学生らによるデモ隊はプラハ六月蜂起(英語版)の結果、アルフレート1世・ツー・ヴィンディシュ=グレーツの軍に破られ43名が死亡した[72]。ロンバルド=ヴェネトでもウィーンでの運動に触発され、帝国からの完全独立を求める運動がミラノの5日間と呼ばれる市街戦の後にオーストリア軍を排した[73]。

しかし、内相フランツ・フォン・ピラースドルフ(英語版)が起草した欽定憲法では賦役の廃止が定められたものの君主制は維持されるままというものであり、それを不服として5月には宮廷にデモ隊が押し掛け二院制と選挙法改正を主張した[74]。これに対し皇族らはインスブルックに退避してしまい、ウィーンではフィッシュホーフが委員長を務める、国民軍から選出された「公安委員会」が設置された[74]。この公安委員会はその後3ヵ月間にわたり、政府と並ぶ二重権力を構成した[75]。また、失業者のために公共労働省が発足して土木工事などにおよそ2万人が雇用されていったが、集団意識を持ち始めた彼らはウィーン市民の脅威ともなった[74]。その後はヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ(ヨハン大公)の計らいで国民議会選挙が実施されて憲法制定の議会が招集、賦役廃止が決定され皇帝も7月にはウィーンへ戻った[74]。しかし、8月には女性と子どもの賃金引き下げに端を発するデモが発生、デモ隊のウィーン市内流入を阻もうと国民軍が応戦し多数の死者が出たことで、公安委員会は解散に追い込まれた[74]。

一方の政府側は国内各地のデモに対し、ヴィンディシュ=グレーツ、ヨーゼフ・ラデツキー、ヨシップ・イェラチッチをプラハ、イタリア、ブダペストにそれぞれ派遣し鎮圧に当たらせたが[76]、ブダペストではオーストリアからの独立を企図するコシュートによってイェラチッチ率いる軍勢が撃破され、イェラチッチは議会を招集し9月になるとハンガリー攻撃のために皇帝に援助を要請した[77]。ウィーンはこれを拒んだものの軍事大臣のテオドール・バイエ・フォン・ラトゥール(英語版)が10月6日に独断で軍を動員させたために軍と革命派は対立、結果としてアカデミー軍は正規軍をウィーンから追放してラトゥールは処刑になり、フェルディナント1世はオロモウツに再度退避した[77]。その後10月31日、ヴェンツェル・メッセンハウザー(ドイツ語版)率いる革命軍はヴィンディシュ=グレーツの皇帝軍とついに衝突、革命派は鎮圧されてメッセンハウザーも処刑された[76][77]。11月21日、フェルディナント1世はクレムジール(英語版)に新議会を招集して、首相となったフェリックス・ツー・シュヴァルツェンベルクは諸国民の平等と二院制議会の設置を含んだ憲法を発表したが、翌年3月になると武力で議会を解散させた[78]。12月2日にはフェルディナント1世が当時18歳のフランツ・ヨーゼフ1世に譲位した[79][80]。

こうしてウィーンでの革命は潰えたがイタリアやハンガリーでは続いており、1849年3月にオーストリア帝国内(ロンバルド=ヴェネト)のイタリア人の支持を受けてサルデーニャ王国が起こしたノヴァーラの戦いはラデツキー率いるオーストリア軍により制圧された一方[81][82]、4月13日にハンガリー議会はコシュートを元首とする共和国を宣言した(ハンガリー独立宣言)[83]。ヨーロッパ各国からの義勇兵も含んだハンガリー軍は5月21日にオーストリア軍が防衛するブダを攻め落とした一方、オーストリア側はロシアに介入を求めたことで戦局が傾き、8月にはハンガリーが降伏しコシュートはオスマン帝国に亡命した[83]。同月には包囲されていたヴェネツィアがオーストリアに、2月に成立したばかりのローマ共和国 (19世紀)もフランスにそれぞれ降伏し、ロンバルド=ヴェネトにはラデツキーが総督として着任した[84]。一連の革命では国内の民族的分裂や階級闘争が明るみになり、ハンガリーでは独立運動、チェコ人は国内のゲルマン系への反発、そしてウィーン市民は君主制に対する変革を行った[83]。

他方、同年に開かれていたフランクフルト国民議会ではドイツ連邦が将来的にドイツ統一を目指すことになったが、ウィーンを首都とするオーストリアの大ドイツ主義とプロイセン王国の小ドイツ主義が対立した[85]。議会投票では小ドイツ主義が得票数を僅差で上回るも、シュヴァルツェンベルクはハンガリーなどのドイツ系でない地域も統一ドイツに含まれるべきだと主張して小ドイツ主義の方向性を妨げた[86]。それに対し国民議会はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を皇帝として選出するが、民主化運動を毛嫌いしていた彼は国民が選んだ代表者によるその皇位を屈辱として拒み[87]、その権威が失墜した議会はシュトゥットガルトに拠点を移した後の1849年6月に解散した[86]。翌1850年、プロイセン側はドイツ連邦の改革案を打ち出したが、それにより連邦における主導権を奪われると見なしたオーストリアは反発、オーストリアが率いる連邦を継続するようロシアが介入したこともあり、結果としてプロイセンはオーストリアに従った[87]。

結果的にオーストリア帝国はイタリアおよびドイツ地域での統治を革命運動から復活させ、以後の能率化・近代化した絶対主義体制は新絶対主義(ドイツ語版)と呼ばれる[88]。1851年12月31日に出され新絶対主義の基盤となったジルフェスター勅令(ドイツ語版)(シルヴェスターとも[89])では、皇帝の権力を侵さずに助言のみをする任命制の議会が設置されたが、フランツ・ヨーゼフ1世が政策決定する上で議会に相談することはなく[90]、立法府は有名無実化していた。新たに内相となったアレクサンダー・フォン・バッハが古い特権や自治を撤廃し、行政システムの能率を高める改革を実施することで体制を支えた[91]。クレムジールの憲法で保障されたはずの諸言語と国民の平等は反故にされ、バッハは検閲による世論統制を実施して警察や密告者の情報網を構築した[92]。また、ハンガリーなど多くの地方行政機関は廃止されてウィーンの直接統治下に入り、ロンバルド=ヴェネトとガリツィアを除いて中央集権化が進んだ[93]。

相次ぐ領土喪失とアウスグライヒ

ソルフェリーノの戦いにて指揮するフランツ・ヨーゼフ1世

1848年からの第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でデンマークと衝突し一時休戦していたプロイセンだったが、ロシアの賛意を得ていたオーストリアが1850年に召集したドイツ連邦議会でシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国に対し、デンマーク側に服属し軍隊の3分の2を解散させることを要求、またオーストリアはオルミュッツ協定にてプロイセンによる統一政策を妨害することに成功した[94]。ハンガリーでのロシア軍介入以来は良好な対露関係だったが、1853年のクリミア戦争ではバルカン半島における利害が衝突したため蜜月は長く続かなかった[95]。ロシア側はオーストリアと共同でバルカン半島の保護者になるべきだと主張していたが、それによりオーストリアはバルカン諸民族に汎スラヴ主義が芽生えることを危惧しており、またこの墺露関係の悪化はドイツ連邦におけるオーストリアの権威を低下させることを意味したため、プロイセンにとって有利に働くこととなった[96]。7月にロシア軍がモルダヴィアとワラキアに進駐するとオーストリア軍もこれに続き両地に行政組織を設置、英仏やオスマン帝国側に立った結果としてロシアは敗戦した[97]。しかしこの後、同じくオスマン帝国側として参戦しイタリア統一を目指すサルデーニャ王国は来たるべき対オーストリア戦争における軍事支援をフランス第二帝政から取り付け(プロンビエールの密約)、フランスもロシアに対し中立の維持を求めることに成功した[98]。オーストリアはプロイセンに支援を要請するもドイツ統一をめぐって険悪だった関係のためにこれは拒まれ、サルデーニャに対し最後通牒を突きつけた[99]。回答を無視したサルデーニャに対しオーストリアが進軍したことで1859年に第二次イタリア独立戦争が勃発するが、敗北したオーストリアはチューリッヒ条約でロンバルディアをフランスに割譲させられ、フランスはそれをサルデーニャに引き渡し、1861年にはサルデーニャ主導の下イタリア王国が成立する[100][101]。

1859年の敗戦により帝国は財政危機に見舞われたのみならず兵站部で汚職事件が発覚するなど[102]、その絶対主義体制が動揺を見せると、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は翌1860年に立憲主義へ舵を取り、帝国が連邦国家的性質を含む同君連合と宣言する十月文書(英語版)として知られる憲法を発布した[103]。ポーランド人やチェコ人らは文書に賛意した一方でハンガリー人は尚もその独立性の保証を要求し続けたため、政府は1861年1月にハンガリー人に国会選挙を約束、同年4月に召集されたほか、ウィーンの宮廷ではハンガリーのために独立した宮中事務局長が置かれ[104]、最高裁判所の設置により司法権も付与された[105]。同年の二月勅令(英語版)は、帝国議会(英語版)(ライヒスラート)の確立など[106]、ハンガリー諸州を除いたオーストリア帝国のための国家原理を定めたが、ドイツ系以外の諸民族や、結局はオーストリア側の代表機関に従わざるを得ない状況を好まなかったハンガリー人により反発を受けた[107]。結果的に、二月勅令は中央集権的な方針に立ち返ったものであり、外交と軍事面における皇帝の独裁権も保持された[108]。

1863年、デンマーク王にクリスチャン9世が即位すると彼は1852年のロンドン議定書を無視してシュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国の併合を企図した[109]。これに対しプロイセンは翌1864年にオーストリアを誘い第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に参戦、1865年のガスタイン協定(英語版)にてシュレースヴィヒをプロイセン、ホルシュタインをオーストリアがそれぞれ治めることになった[109]。しかし、ドイツ連邦議会でのオーストリアとバイエルンの提案が協定に反していると主張したプロイセンがホルシュタインに進軍、1866年に普墺戦争が勃発した[110]。この際オーストリアは、フランスの中立維持と引き換えにヴェネツィアの引き渡しを約束したが、フランスは戦争の結果を問わずそれをイタリアに譲るつもりであった[111]。当のイタリアは密約によりプロイセン側として参戦[85]、クストッザの戦い(英語版)やリッサ海戦など対イタリア戦線では優勢だったオーストリア軍だったが[111]、ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍に大敗し、プラハ条約でオーストリアはドイツ連邦から排除されてドイツの支配権を失い、賠償金を支払わされヴェネツィアをイタリアに割譲させられた[110]。

これと並行し、1865年に廃止された帝国議会[112]と二月勅令[注 2]に代わって皇帝は新たにフェレンツ・デアク(英語版)やアンドラーシ・ジュラをはじめとするハンガリー人と交渉を続けねばならなかった[114]。デアクは、かつての神聖ローマ皇帝カール6世の国事詔書 (1713年)による歴史的権利の考えに基づき、コシュートのような革命的手法にもハンガリーの独自性を無視するウィーンの中央集権体制にも異を唱え、あくまでも帝国内部での独立という形式を目指したのである[114]。普墺戦争直前のオーストリア側は、プロイセンに勝てばハンガリーに対し譲歩する必要がなくなると考えて彼らとの交渉を延期していたが[115]、皇帝側がデアクに少しずつ譲歩していたなかでプロイセンに敗北したことが重なった[116]。1866年10月にフリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイストが外相に任命されると彼がハンガリーとの交渉を引き継ぎ[117]、その交渉のためにアンドラーシらは1848年の三月法に則りハンガリーの責任政府として見なされた[118]。ハンガリー側はオーストリア側による調停への同意を求めたためボイストは二月勅令と帝国議会を復活させ[119]、ついに1867年5月、オーストリアと独自性を認められたハンガリーは「アウスグライヒ(Ausgleich、妥協/協和)」に至り、オーストリア帝国はその名称を「オーストリア=ハンガリー帝国」へと改め[116]、フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝とハンガリー国王を兼ねる国家となった[105]。ハンガリー王としての戴冠式は6月8日に執り行われた[120]。

経済

産業と貿易

1816年、その5年前の通貨切り下げによる回収資金を調達するため、主に政府へ貸付けをするオーストリア国民銀行(後のオーストリア=ハンガリー銀行(英語版))が設立された[121]。オーストリア帝国では1820年代に綿紡績が、1830年代に毛織物生産がそれぞれ機械化されたことを受け、工業生産の4割ほどを織物産業が占めるようになり、1847年時点では157台の綿紡績機を擁し、紡錘の数に至ってはドイツ関税同盟よりも多かった[1]。1人当たりの工業生産高はフランスのそれに匹敵し、人口の17%を占めた商工業従事者の割合はドイツに比肩した[1]。1人当たりの鉄生産量もドイツより多く、特に1820年代以降のボヘミアでは鉄鋼生産が2倍、石炭生産は4倍に成長した[1]。ボヘミアにおける織物家内工業の強い伝統は多くの家族を養うことができ、ここでの人口増加が労働者予備軍を生み出しており、炭鉱や鉄鉱山がボヘミアやモラヴィアに位置していたことも相まって、帝国の工業化のための先行条件が揃っていた[122]。帝国初期の工業発展にはイギリス由来の技術が大きく寄与しており、時には技術盗用もあったが、多くのイギリス人技師がモラヴィアにおける鉄鋼業の指導やアドリア海での蒸気船会社の設立、ブダペスト最初の橋の建設、ウィーンのガス灯設置などに貢献した[123]。しかし、このように工業化が進んだとはいえ、1846年時点での国民の約75%は農業従事者であり、工業従事者の17%に比べればずっと高かったため、帝国は依然として農業国であった[124]。

メッテルニヒと1840年からの財務相カール・フリードリヒ・フォン・キューベック(ドイツ語版)は、国営鉄道建設計画と民間路線買い上げを支援したが、これらは1847年の財政危機の原因となった[125]。1848年から1857年のヨーロッパ不況までの間は、農奴制やハンガリーの特別な地位といったメッテルニヒが試みた経済戦略の足枷が革命によって除去されたため、新絶対主義体制下で帝国はさらなる経済成長を遂げた[126]。医療サービスの再編成やドナウ川の築堤、ティサ川流域の整備なども進められ、西ヨーロッパからの新技術を導入する一方、東ヨーロッパに工業製品を売ることでオーストリア帝国は繁栄し、また東欧市場の近接性は競合相手となるイギリスよりも有利をもたらした[126]。特に、1850年代から始まった大規模な投資を可能にする銀行システムが鉄道網の拡大、ひいては鉄鋼業と中央ヨーロッパの工業化を推進した[127]。電信や1850年におけるオーストリア・ドイツ郵便連合の発足、1857年のオーストリア・ドイツ通貨連合、1862年のオーストリア・ドイツ通商法における規格統一といった出来事が商業や金融面での接触を促した[127]。また、1850年7月に出された「緊急法令」によって、ハンガリーと残りのオーストリア間の関税障壁が撤廃され、単一の商業制度に成り代わったほか[128]、50年代に鉄鋼生産は年間7%の成長を記録、石炭消費量は1851年以降の22年間で年10%も伸びた[129]。機械化の波は綿紡績から毛織業、醸造、製紙、製粉に及んで生産量が増え、帝国内の蒸気機関の数も1852年以降の11年間で4倍に増加しており、特にハンガリーでは鉄鋼業と製粉が大きく成長した[130]。

しかし、経済成長に伴い税収が増えたとはいえ、1855年の2億5000万フローリンを越える軍事費を賄うことは厳しかった[131]。財政の危うさは海外におけるオーストリア紙幣の切り下げという形で露呈しており、銀の両替差額が生じることで紙幣を額面で引き受ける必要が時としてあった[131]。デフレ政策や債務借入れ、国有地と鉄道の売却といった取り組みも、クリミア戦争と第二次イタリア独立戦争が重なることで打ち消された[132]。1857年には、ウィーンの城壁を市民向けに転用する法令が出され、土地活用のための委員会が設置されてリングシュトラーセの開発が始まった[133]。

交通

ロイド社の汽船「マリア・アンナ号」

帝国内における交通網は主にメッテルニヒの時代に大きな発展を遂げており、約2,000マイルに及ぶ主要道路の建設、ドナウ川からティサ川に至るハンガリー平原の大半での通商自由化のほか、ドナウ川・ヴルタヴァ川・エルベ川の3河川が運河で接続された[134]。1818年にはアドリア海で、1831年にはドナウ川で蒸気船の定期便が就航した[134]。1830年のドナウ汽船会社(英語版)、および1836年のオーストリア・ロイド海運会社(英語版)が代表的な汽船会社として設立され、帝国政府の水運政策の下に競合した[135]。特にロイド社は、政府と郵便協定を取り決めることで国家事業を担う公益企業として確立し、オスマン帝国のトラブゾンやアレクサンドリアなどにも就航した[136]。

リンツの馬車鉄道と汽船(1840年ごろ)

1832年には馬車鉄道がリンツ-ブドヴァイス間で完成したのを皮切りに[124]、帝国内での鉄道計画が生まれ、1838年にはザーロモン・マイアー・フォン・ロートシルトの出資を受け、皇帝フェルディナント北部鉄道が最初の路線となるフロリズドルフ(英語版)からヴァグラム(英語版)まで営業を開始した[137]。1838年には鉄道許可法が、1841年には国策としての重要路線を計画するための法律も定められたが、いずれも民間資本を前提としており、政府主導による鉄道投資が始まるのは1842年からであった[138]。

新絶対主義体制でも鉄道網はさらに広がり、当初は国営だったが1854年以降は民間企業により進められ、ロンバルド=ヴェネトを除く帝国内鉄路の総延長は1500キロから4700キロにまで伸びた[139]。1856年末までには国家支出の約2割となる約2億9000万フローリンもの資金が鉄道網に投下されたが、財政圧迫の原因ともなったため、1854年の勅令により事業の主体は主に海外からの民間資本に移行していった[140]。また、ドナウ川の蒸気船会社は革命後の8年間で資本を4倍に増やし、1856年までに130万人もの輸送実績を出した[130]。

文化

監視と検閲の時代であったメッテルニヒ体制下のオーストリアでは、ビーダーマイヤーと呼ばれる独特の市民生活が花開いていた。本来この用語は雑誌『フリーゲンデ・ブラッター(英語版)』の登場人物に由来するが、やがて彼の愚直で自主性に欠けた性格のような芸術スタイルや服飾、そして当時のオーストリア国民の生き様を表す意味を持つようになった[141]。代表的なビーダーマイヤーは家具に表れ、バロックやロココとは一線を画す単調ながら快適性を求める様式であった[141]。その担い手である裕福な市民らは当局の監視を恐れて政治から目を背けた一方、音楽、観劇、舞踏会などが人気を博し、特に家族が中心となって鑑賞する家庭音楽が流行した[142]。ウィーン郊外に次々と建てられたダンスホールでは様々な階級の市民が舞踏に明け暮れてウィンナ・ワルツというスタイルも生まれたほか、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウス1世などがダンス用に多くの音楽を作曲した[143]

領域

1855年のオーストリア帝国民族分布図

主要年表

以後の歴史はオーストリア=ハンガリー帝国#略年表を参照。

脚注

注釈

  1. ↑ メッテルニヒは追放先のエルバ島が近すぎるとして反対[29]。
  2. ↑ 皇帝がハンガリーとの交渉中にオーストリア側で帝国議会を機能させるわけにはいかない、との口実によった[113]。
  3. ↑ 代表的な通史・概説書『ドナウ・ヨーロッパ史』(山川出版社、1999年)の本文199ページにて「1847年のガリツィア蜂起」という記載があり要注意である。なお、「巻末年表」では1846年の項に「クラクフ蜂起」「ガリツィアの農民蜂起」記載。

出典

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  • コーン, ハンス 著、稲野強 訳『ハプスブルク帝国史入門』恒文社、1982年。 
  • 佐々木, 洋子『ハプスブルク帝国の鉄道と汽船 19世紀の鉄道建設と河川・海運航行』刀水書房、2013年。 
  • ジェラヴィッチ, バーバラ 著、矢田俊隆 訳『近代オーストリアの歴史と文化 ハプスブルク帝国とオーストリア共和国』山川出版社、1994年。 
  • シュタットミュラー, ゲオルク 著、丹後杏一 訳『ハプスブルク帝国史 中世から1918年まで』刀水書房、1989年。 
  • テイラー, A・J・P 著、倉田稔 訳『ハプスブルク帝国 1809―1918 オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史』筑摩書房、1987年。 
  • 増谷, 英樹、古田, 善文『図説 オーストリアの歴史』河出書房新社、2011年。 
  • 岩﨑周一『ハプスブルク帝国』講談社〈講談社現代新書〉、2017年。ISBN 978-4-06-288442-6
  • 渡辺克義『物語 ポーランドの歴史:東欧の「大国」の苦難と再生』中央公論新社〈中公新書〉、2017年。ISBN 978-4-12-102445-9

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