第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
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第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(だいにじシュレースヴィヒ=ホルシュタインせんそう)は、1864年に、デンマークとプロイセン王国および関係国の間で戦われた戦争である。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国の帰属をめぐるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題が原因である。プロイセン側の勝利となり、両地方はプロイセンとオーストリア帝国の管理下に置かれた。
- 1 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争とは
- 2 第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争の概要
- 3 開戦
- 4 ヘルゴラント海戦
- 5 戦後の影響
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争
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「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」の記事における「第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の解説
デンマーク王国オレンボー朝の系図 クリスチャン1世 ハンス フレゼリク1世 クリスチャン2世 クリスチャン3世 フレゼリク2世 ハンス若公 クリスチャン4世 (ゾンダーブルク家) フレゼリク3世 クリスチャン5世 フレゼリク4世 クリスチャン6世 フレゼリク5世 クリスチャン7世 ルイーセ フレゼリク フレゼリク6世 ルイーゼ フリードリヒ・ヴィルヘルム クリスチャン8世 クリスチャン9世 フレゼリク7世 (リュクスボー朝) ルイーゼ クリスチャン3世以降は、オレンボー家とホルシュタイン=ゴットルプ家の共同統治となる。フレゼリク4世以降は、ホルシュタインのみが共同統治。 「シュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧」も参照 1863年、デンマーク王フレゼリク7世が崩御する。デンマークの王位継承法と議会の決定により、オレンボー家の傍流グリュックスブルク家のクリスチャン9世がデンマーク王を継承することになった。フレゼリク7世は生前「11月憲法」を布告し、両公国のデンマークへの併合を含めた「継承令」を明らかにした。こうして新王家グリュックスブルク家が両公国の主権者となったが、これに反対の立場を示したのが、一方の係争国であるプロイセン王国であった。この時代になると、ドイツ人のナショナリズムは以前よりも高まりを見せ始めていた。一方北欧では、汎スカンディナヴィア主義の退潮の兆しが見え始めていた。それでもなお、汎スカンディナヴィア主義はスウェーデン=ノルウェー王カール15世によって牽引されていた。 一方、ドイツ統一を牽引していたのが、1862年に宰相となったビスマルクであった。鉄血政策を推進するビスマルクは、1863年に制定された「11月憲法」はロンドン議定書違反であるとして撤回を要求すると同時に臨戦態勢を取り、デンマークを圧迫した。戦争回避は望めず、1864年に両国は開戦した。第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(ドイツ語: Deutsch-Dänischer Krieg、デンマーク語: 2. Slesvigske Krig、1864年)の開始である。オーストリア帝国と同盟したプロイセン軍は、圧倒的な軍備とビスマルクの外交政策により、スウェーデンと欧州列強の中立を導き出し、デンマークを屈服させた。汎スカンディナヴィア主義はこの戦争の敗北により挫折した。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国は、プロイセンとオーストリアに引き渡された。
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