シュレースヴィヒとは? わかりやすく解説

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シュレースヴィヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/28 10:12 UTC 版)

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シュレースヴィヒ: Schleswig)、スレースヴィ: Slesvig


シュレースヴィヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:30 UTC 版)

ヴェルサイユ条約」の記事における「シュレースヴィヒ」の解説

シュレースヴィヒのデンマーク系住民大戦末期からシュレースヴィヒの帰属決め住民投票希望しており、1918年11月17日にはデンマーク系住民居住地域の南限である「クラウセンライン」を国境とするべきであるという「アペンラーデ決議」を発表した。しかしデンマーク政府ドイツ系住民多数占め中南部編入望んでおらず、その点ではドイツ共和政府とも了解取れていた。しかしドイツ系住民の「シュレースヴィヒ公爵領のためのドイツ委員会」はシュレースヴィヒの一体性主張し住民投票の際はシュレースヴィヒ一体で行うべきと主張していた。ヴェルサイユ条約ではクラウセンラインが採用されライン以北第一地区以南第二地区として別個に投票を行うことになった。 シュレースヴィヒの住民投票英語版)は、北部第一地区では1919年6月28日第二地区では1920年3月14日行われた北部ではデンマーク所属派が75%と優勢であり、中部シュレースヴィヒの投票では80%がドイツ選択するなどははっきりした傾向現れた。また南部ドイツ支持明確な地区では投票自体行われなかった。この結果に不満を持ったデンマーク国家主義者中部シュレースヴィヒのデンマーク編入要求し国王クリスチャン10世介入する一大政治問題となった1920年のイースター危機英語版))。結局デンマーク住民投票の結果どおり、中部シュレースヴィヒ獲得断念した一方ドイツ政府はクラウセンライン以北にあるドイツ住民優勢な地域考慮して国境を引きなおす案を提案した入れられず、国境線はクラウセンラインが採用された。その後北部シュレースヴィヒは1920年6月15日デンマーク編入された。

※この「シュレースヴィヒ」の解説は、「ヴェルサイユ条約」の解説の一部です。
「シュレースヴィヒ」を含む「ヴェルサイユ条約」の記事については、「ヴェルサイユ条約」の概要を参照ください。

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この記事は、ウィキペディアのシュレースヴィヒ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
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