シュレージエン侵攻とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > シュレージエン侵攻の意味・解説 

シュレージエン侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:55 UTC 版)

第一次シュレージエン戦争」の記事における「シュレージエン侵攻」の解説

プロイセン軍1740年12月初にオーデル川沿岸秘密裏集結した12月16日フリードリヒ2世プロイセン軍率いて宣戦布告せずに国境越えてシュレージエン侵入したプロイセン軍戦力は2個軍団で計2万7千人であり、一方シュレージエンオーストリア駐留軍はわずか8千人だった。そのため、オーストリア軍抵抗弱くわずかに要塞数か所に守備兵割り振るしかできなかった。これにより、プロイセン軍1741年1月2日にはシュレージエン首府ブレスラウ戦闘もなしに占領し9日にはオーラウ(英語版要塞抵抗せず占領された。その後プロイセン軍はオーラウで冬営入ったこのようにシュレージエンのほぼ全域1741年1月末までにプロイセンの手落ち、残るグローガウブリークナイセの3拠点はいずれ包囲された。これはわずか1か月戦死22人の損害でもって達成したことだった。大王は後の著作で、もし春を待っていたら同じ成果を得るのに3、4年の戦役を必要としただろうと書いており、1740年シュレージエン急襲近代戦史研究で、非常に成功した戦略的奇襲の例、また予想外重大な敵の攻撃を受ける例としてしばしば取り上げられている。 プロイセン軍1741年初に冬営切り上げると、春季攻勢仕掛け3月9日にはアンハルト=デッサウレオポルト2世グローガウ襲撃し陥落させた。3月末、ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルク率いオーストリア軍2万人はモラヴィアからズデーテン山地越えて4月5日ナイセ包囲解いたが、その後プロイセン本軍阻まれ進軍できなかった。両軍4月10日にモルヴィッツ(英語版近く会戦し(モルヴィッツの戦い)、クルト・クリストフ・フォン・シュヴェリーン伯爵率いプロイセン軍オーストリア軍進軍阻止成功した両軍ともに大勝したわけではなくフリードリヒ2世一時シュヴェリーン助言を容れて)捕虜ならないよう逃亡したが、結局オーストリア軍撤退させたことでプロイセン軍会戦自軍勝利として宣伝したブリーク5月4日プロイセン軍前に降伏するが、その後プロイセン本軍ナイセ近くで数か月間野営し、ナイペルク率いオーストリア軍対峙するものの実際戦闘少なかった

※この「シュレージエン侵攻」の解説は、「第一次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「シュレージエン侵攻」を含む「第一次シュレージエン戦争」の記事については、「第一次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シュレージエン侵攻」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シュレージエン侵攻」の関連用語

シュレージエン侵攻のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シュレージエン侵攻のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第一次シュレージエン戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS