冬営とは? わかりやすく解説

とう‐えい【冬営】

読み方:とうえい

軍隊などが陣営張って冬を越すこと。また、その陣営

冬を越すための用意


冬営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/12 17:11 UTC 版)

冬営(とうえい)とは、出陣している軍勢がを越すために作戦行動を一時停止して長期滞陣を行うこと、およびその陣営である。近代に入るまでは冬営が当たり前であった。したがって昔の戦争では冬の間にいったん進行がブツリと途切れている。

概要

冬営を行うのは兵士の消耗を防ぐためである。冬は寒さにさらされるだけでなく、食糧が入手しにくい時期で、態勢が不十分なまま冬の到来を迎えると軍中に疫病が蔓延したり、また士気が低下して逃亡兵が続出する可能性があった。だから当時 (近代に入るまでずっと) の指揮官たちは、下手をすると行軍するだけで会戦に大敗するのと同じぐらいの数の兵士を失いかねない冬季の作戦を行わず、動かずに兵を休めて春の到来を待った。また、冬は雪が積もったり高緯度地域では日が短くなることにより地域間の交通が遮断されるか、著しく困難になるので会戦を実施しにくいということも大きく影響した。

指揮官は冬営入りを決定すると、冬営する土地に兵を移動させる。冬営地は食糧が豊かな地方であることが望まれ、そのために戦域から遠く離れた地方に部隊を移動させることもよくあった。また、冬営はその地方に負担をかけるので可能なら敵方の土地で冬営を行うことが好まれた[1]。軍隊の規模が大きくなると一地方では冬営を担うだけの必要物資を賄いきれず、複数の地方に分散させるなどした。同じ理由で、一地方の中でもある程度部隊を散らばせて配置するのが普通であった。

冬営地に到着すると部隊は小屋掛けのための資材を徴発するか、もしくは家屋ごと徴発する。村ごと徴発する場合も珍しくない。冬営の間に部隊の規律が弛緩したり、馬が痩せてしまったりしないように注意が払われる。冬の間部隊を良好な状態に保てるかどうかは重要で、給養に失敗すると、病死ないし逃亡する兵士が続出し、残った兵士も強盗や乞食をするようになって、部隊は戦闘力を失う。

冬営中は自然休戦となるため、指揮官の異動や作戦会議、和平交渉などが行われた。将校には休暇が与えられて国に一度帰ったりもする。大戦争の場合、総指揮官級の将軍が同盟諸国を訪問して戦況を説明し応援を乞うて回ることもしばしばであった[2]

このように冬の間は休戦というのが戦争の常識だったが、この常識を利用して戦況を優位にしよう、挽回しようとする試みも常に行われた[3]。冬営中の軍隊は哨兵線を敷いて警戒は怠らなかったものの、奇襲を受けることもあり、また、分散していることが多かったので敵が前進してくると対応しかねて合流に成功するまでずるずる後退することもあった。

冬営に入るタイミングは時代と状況による。一般に補給態勢が整ってくる後の時代になるほど遅くまで作戦が可能になり、冬営を行う理由も補給が困難であるということから、会戦が困難であるということに移っていく。必要であれば12月でも会戦が行われた。一方で夏が終わると同時に進撃を取りやめて冬営地を探し始める場合もあった。

冬営が行われなくなったのはフランス革命戦争からナポレオン戦争のころである。クラウゼヴィッツ戦争論において冬営はすでに過去のものとして扱われている[4]

脚注・参考資料

  1. ^ 七年戦争ザクセンが顕著な例。伊藤政之助『世界戦争史6』(戦争史刊行会、1939年)
  2. ^ スペイン継承戦争におけるマールバラ公ジョン・チャーチルプリンツ・オイゲンがその最たる例であろう。友清理士『スペイン継承戦争』(彩流社、2007年)
  3. ^ 後者は1674年冬のテュレンヌ作戦がその優れた例である。また、冬営中の敵を襲った例は数限りない。 林健太郎・堀米雇三編『世界の戦史6 ルイ十四世とフリードリヒ大王』(人物往来社、1966年)
  4. ^ クラウゼヴィッツ 著\篠田英雄訳『戦争論』(岩波文庫、1968年)

関連項目


冬営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:21 UTC 版)

ドナー隊」の記事における「冬営」の解説

ブリーン、グレイブスリードマーフィー、キースバーグ、エディ各家の60人はトラッキー湖畔で冬に備えた。そこには互いにかなり離れて松材丸太小屋が3軒建っていたが、床は土が剥き出しで、粗末な平屋根雨漏りがした。うち1軒にはブリーン家が入り、もう1軒にはエディ家とマーフィー家、3軒目にリード家とグレイブス家が入った。キースバーグ家はブリーン家の小屋の壁を使って差し掛け小屋建てて使用した。各家は幌布や牛革屋根補修した。どの小屋も窓や扉はなく、単に入口開いているだけだったトラッキー湖畔にいた60名の内訳は、18歳超の男性19名、女性12名、子ども29名(うち乳幼児6名)である。そこから道を下ったアルダー川付近では、ドナー家が21名用にテント群を急造した。そこにはウォルフィンガー夫人その子どもらのほかにドナー家の御者もおり、全部男性6名、女性3名、子ども12名だった。11月4日の晩には再び降り始め以後8日間嵐が続いた一行設営した時点で、スタントンがサッター砦から持ち帰った食料はほぼ尽きていた。牡牛次々倒れ死体は凍るままに積み上げられた。トラッキー湖はまだ凍っていなかったが、湖のイワナ獲ることを知らなかったエディは皆の中では猟の経験がもっとも豊富で、熊を1頭仕留めたが、その後獲物恵まれなかった。リード家とエディ家はほとんど何もかもなくしており、マーグレット・リードは、グレイブス家とブリーン家から牡牛を3頭譲り受けるにあたってカリフォルニア着いたら倍値を払うと約束したグレイブスエディ餓死した牡牛1頭を25ドル2016年換算600ドル)で売ったが、これは当時相場健康な牡牛2頭分値段である。 皆の間で絶望感募り馬車ではなく徒歩峠を越える案が出た11月12日、嵐がやんだ機に小さな班が徒歩で峠を目指したが、柔らかく深い粉雪の中を進むのは困難で、その日の晩に戻った翌週にかけて、ほかの別々の班が都合2回ほど出発した同じくすぐに失敗した11月21日、約22からなる大規模な班が出発して今度は峠にたどり着き、そこから1.5マイル(2.4キロ)ほど西へ下ったが、結局進行断念し11月23日湖畔帰着した。 パトリック・ブリーンは11月20日から日記をつけ始めた当初天気関心があり、嵐や降雪量書き留めていたが、次第に神や信仰触れ記述増えたトラッキー湖畔暮らし惨めだった。小屋狭苦しく不潔であり、しかもあまりに多く何日も外に出られなかった。食事はじきに牛の革となり、切れ端煮込んで食えもんじゃない」糊状のゼリーにした。牡牛馬の骨スープ作るために何度も出されしまいにはぼろぼろになって噛むと崩れた時にはそのまま焦がして食用した。マーフィー家の子どもは暖炉前に敷いた牛革一切れずつ切り取り炙って食べたかんじき隊(後述)が出発したあとは、トラッキー湖畔残った移民団の3分の2は子どもであり、グレイブス夫人が8人の世話をし、ラヴィナ・マーフィーとエレノア・エディがそれぞれ9人を世話した人々小屋迷い込む鼠も捕えて食べた。じきに皆衰弱してほとんどの時間寝て過ごすようになった時折誰かが往復1日行程をおしてドナー家の様子を見に行った。ジェイコブ・ドナーと御者3名が死んだとの知らせ伝わったが、うちジョセフ・ラインハートはウォルフィンガーを殺した死に際告白したジョージ・ドナーは手の傷が化膿しこのためドナー家で動け男手は4人になった。 マーグレット・リードは、食料節約しクリスマススープ作って子どもらに振る舞ったが、翌1月には飢餓直面し屋根牛革食べるか考え始める。マーグレット・リード、ヴァージニア、ミルト・エリオットと侍女のエリザ・ウィリアムスは座して子どもが飢えるのを見るに忍びず、食料持ち帰るべく脱出図ったが、雪の中を4日進んだのち引き返さざるを得なかった。彼らの小屋はもはや居住不能だった牛革屋根食料として一家はブリーン家に合流し使用人他家分散したある日グレイブス家がリード家に負債取り立て来て残され食料のすべてである牛革持ち去った

※この「冬営」の解説は、「ドナー隊」の解説の一部です。
「冬営」を含む「ドナー隊」の記事については、「ドナー隊」の概要を参照ください。

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