プロイセン軍の撤退とは? わかりやすく解説

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プロイセン軍の撤退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)

第二次シュレージエン戦争」の記事における「プロイセン軍の撤退」の解説

10月26日プロイセン軍モルダウ以東確保することを諦め、サザワ川を北に越えた大王はまだサザワ以北確保する可能性追求していたが、オーストリア軍進撃はその希望早々に失わせた。トラウン戦略会戦避け機動によってプロイセン軍撃退することであり、北上するプロイセン軍主力に対して自軍主力でもって追撃することをせず、パンドゥールによって常に圧迫することのみを行ったトラウン勢力割いてプラハ対す圧力強めとともに主力依然として北東に向け、ベネシャウからさらに東に向かって行軍したプロイセン軍求めるものはすみやかな今年戦役打ち切り冬営だった。サザワ川を越えた後、プロイセン軍にはもうエルベ川しか残されていなかったが、それについて大王には二つ選択肢があった。一つプラハ周辺に留まってプラハ援護しつつベーメン北西部冬営に入ること。もう一つ東方エルベ川屈折部に後退しベーメン北東部冬営に入ることだった。東に撤退した場合プラハとの連絡絶たれプラハ孤立するが、かといってプラハ固執するシュレージエンとの連絡断たれる恐れがあった。 すでに浸透しつつあるパンドゥールを排除しシュレージエンとの連絡確保する目的で、大王ナッサウ部隊を東に派遣してエルベ南岸コリン‐パルドビッツの線を保持させた。しかしオーストリア軍意図不明で、大王両者選択迷い、しばらく決断下さないまま北上続けていた。押し寄せるオーストリア軍部隊によってプロイセン軍本隊プラハとの連絡ナッサウ先遣隊との連絡途切れ気味で、軍には再び飢餓状態が出現した首脳陣からはシュヴェリーン脱落したオーストリア軍はサザワを越えお東進中との報告を受けると、大王決断を下さざるを得なかった。トラウン目的は明らかであり、それはプロイセン軍ベーメンから撤退しないようなら彼らをシュレージエンから分断することであったプラハに留まった場合プロイセン軍本国との連絡絶たれるうえに、オーストリア軍シュレージエン攻撃することを許すことになるのであるプロイセン軍はベーミッシュブロートで東南方向転じ11月8日から9日にかけてコリンエルベ川北岸渡河し、冬営入ったプロイセン軍南岸西のコリンナッサウを、東のパルドビッツにデュ・ムーランを入れて守らせ、エルベ川防衛線として哨兵線を張り冬営守りとしていた。無論大王オーストリア軍すんなり攻撃諦めるとは思っていなかったが、オーストリア軍通常なら冬営移り始め時期で、いま少しの時間エルベ川守りきることならば充分可能と考えた実際にオーストリア軍コリンへの攻撃撃退成功していた。しかしオーストリア軍プロイセン軍ベーメン残したまま次の戦役持ち越すつもりはなかった。11月19日深夜のうちにひそかに舟を浮かべて擲弾兵対岸に渡すことで連合軍渡河成功した早朝突如出現した敵部隊遭遇したヴェーデル大隊圧倒的に優勢な敵の前によく戦いヴェーデル大王からレオニダス呼ばれるほどであったが、結局は後退せざるを得ず川岸占領されオーストリア軍渡河を許すこととなった大王計画またしても破れ、もはやプロイセン軍には全面撤退の道しか残されていなかった。大王はただちに物資傷病兵ケーニヒグレーツへの輸送着手し全部隊に撤退準備命じとともにフェルトイェーガー敵中突破させてプラハのアインジーデルに撤退命じた大王は軍を二つ分け一つは若デッサウ指揮により物資携えてグラッツに撤退させ、もう一つ大王率いてケーニヒグレーツで殿を務めたナッサウ収容し、若デッサウ軍の撤退援護しつつその西をブラウナウ経由シュレージエン撤退したの降る冬の山地を充分な食糧のないまま撤退するプロイセン軍を、さらにオーストリア軍追撃襲い撤退成功するにしても多数の、戦闘による死傷者飢え寒さによる病死者、そして逃亡者を出さざるを得なかった。彼らは12月始めにはシュレージエン到着したプラハ守備隊撤退行はより悲惨であった大王撤退命令受け取ったアインジーデルは、ごくわずか時間で、重砲予備銃器破壊して川に沈め可能な限り牛馬徴発し、食糧かき集めることの全て行い11月26日撤退開始した。すでにプラハオーストリア兵に囲まれており、市門出てすぐパンドゥールから狙撃を受け、それでいて市門を出る前から市民によって狙撃され有様だった。パンドゥールは陸だけでなくモルダウにも舟を浮かべてプロイセン軍銃撃し、街道上は打ち捨てられ荷馬車死傷者散乱する悲惨な光景となった。 アインジーデルは一旦北西行軍しライトメリッツ達し、そこから北東転じてザクセン南端通り12月中旬シュレージエン達した。しかしこの過程での彼の軍の損害あまりにも多く、アインジーデルは譴責され軍法会議かけられ1745年寂しく世を去った

※この「プロイセン軍の撤退」の解説は、「第二次シュレージエン戦争」の解説の一部です。
「プロイセン軍の撤退」を含む「第二次シュレージエン戦争」の記事については、「第二次シュレージエン戦争」の概要を参照ください。

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