プロイセン軍の撤退
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「第二次シュレージエン戦争」の記事における「プロイセン軍の撤退」の解説
10月26日、プロイセン軍はモルダウ以東を確保することを諦め、サザワ川を北に越えた。大王はまだサザワ以北を確保する可能性を追求していたが、オーストリア軍の進撃はその希望を早々に失わせた。トラウンの戦略は会戦を避け機動によってプロイセン軍を撃退することであり、北上するプロイセン軍主力に対しては自軍主力でもって追撃することをせず、パンドゥールによって常に圧迫することのみを行った。トラウンは勢力を割いてプラハに対する圧力を強めるとともに軍主力を依然として北東に向け、ベネシャウからさらに東に向かって行軍した。 プロイセン軍の求めるものはすみやかな今年の戦役の打ち切りと冬営だった。サザワ川を越えた後、プロイセン軍にはもうエルベ川しか残されていなかったが、それについて大王には二つの選択肢があった。一つはプラハ周辺に留まってプラハを援護しつつベーメン北西部で冬営に入ること。もう一つは東方のエルベ川屈折部に後退し、ベーメン北東部で冬営に入ることだった。東に撤退した場合、プラハとの連絡を絶たれてプラハが孤立するが、かといってプラハに固執するとシュレージエンとの連絡が断たれる恐れがあった。 すでに浸透しつつあるパンドゥールを排除し、シュレージエンとの連絡を確保する目的で、大王はナッサウの部隊を東に派遣してエルベ南岸のコリン‐パルドビッツの線を保持させた。しかしオーストリア軍の意図が不明で、大王は両者の選択で迷い、しばらく決断を下さないまま北上を続けていた。押し寄せるオーストリア軍部隊によってプロイセン軍本隊はプラハとの連絡もナッサウの先遣隊との連絡も途切れ気味で、軍には再び飢餓状態が出現した。首脳陣からはシュヴェリーンが脱落した。 オーストリア軍はサザワを越えなお東進中との報告を受けると、大王も決断を下さざるを得なかった。トラウンの目的は明らかであり、それはプロイセン軍がベーメンから撤退しないようなら彼らをシュレージエンから分断することであった。プラハに留まった場合、プロイセン軍は本国との連絡を絶たれるうえに、オーストリア軍にシュレージエンを攻撃することを許すことになるのである。プロイセン軍はベーミッシュブロートで東南に方向を転じ、11月8日から9日にかけてコリンでエルベ川北岸に渡河し、冬営に入った。 プロイセン軍は南岸西のコリンにナッサウを、東のパルドビッツにデュ・ムーランを入れて守らせ、エルベ川を防衛線として哨兵線を張り、冬営の守りとしていた。無論大王もオーストリア軍がすんなりと攻撃を諦めるとは思っていなかったが、オーストリア軍も通常なら冬営に移り始める時期で、いま少しの時間エルベ川を守りきることならば充分可能と考えた。実際にもオーストリア軍のコリンへの攻撃は撃退に成功していた。しかしオーストリア軍はプロイセン軍をベーメンに残したまま次の戦役に持ち越すつもりはなかった。11月19日、深夜のうちにひそかに舟を浮かべて擲弾兵を対岸に渡すことで連合軍は渡河に成功した。早朝、突如出現した敵部隊と遭遇したヴェーデルの大隊は圧倒的に優勢な敵の前によく戦い、ヴェーデルは大王からレオニダスと呼ばれるほどであったが、結局は後退せざるを得ず、川岸を占領されてオーストリア軍の渡河を許すこととなった。 大王の計画はまたしても破れ、もはやプロイセン軍には全面撤退の道しか残されていなかった。大王はただちに物資と傷病兵のケーニヒグレーツへの輸送に着手し、全部隊に撤退準備を命じるとともに、フェルトイェーガーに敵中を突破させてプラハのアインジーデルに撤退を命じた。大王は軍を二つに分け、一つは若デッサウの指揮により物資を携えてグラッツに撤退させ、もう一つは大王が率いて、ケーニヒグレーツで殿を務めたナッサウを収容し、若デッサウ軍の撤退を援護しつつその西をブラウナウ経由でシュレージエンに撤退した。雪の降る冬の山地を充分な食糧のないまま撤退するプロイセン軍を、さらにオーストリア軍の追撃が襲い、撤退は成功するにしても多数の、戦闘による死傷者、飢えと寒さによる病死者、そして逃亡者を出さざるを得なかった。彼らは12月始めにはシュレージエンに到着した。 プラハ守備隊の撤退行はより悲惨であった。大王の撤退命令を受け取ったアインジーデルは、ごくわずかな時間で、重砲と予備銃器を破壊して川に沈め、可能な限りの牛馬を徴発し、食糧をかき集めることの全てを行い、11月26日に撤退を開始した。すでにプラハはオーストリア兵に囲まれており、市門を出てすぐパンドゥールから狙撃を受け、それでいて市門を出る前から市民によって狙撃される有様だった。パンドゥールは陸だけでなくモルダウにも舟を浮かべてプロイセン軍を銃撃し、街道上は打ち捨てられた荷馬車と死傷者が散乱する悲惨な光景となった。 アインジーデルは一旦北西に行軍してライトメリッツに達し、そこから北東に転じてザクセンの南端を通り12月中旬にシュレージエンに達した。しかしこの過程での彼の軍の損害はあまりにも多く、アインジーデルは譴責されて軍法会議にかけられ、1745年に寂しく世を去った。
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