プロイセン軍の補給問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:12 UTC 版)
「第二次シュレージエン戦争」の記事における「プロイセン軍の補給問題」の解説
プロイセン軍は千数百両の荷馬車と数千頭の馬および牛を用意して戦争に臨んだが、それでも必要な分の食糧を用意することはできず、当時の戦争ではいつもそうだったように現地調達に多くを頼っていた。ところがプラハから南下を始めて間もなく、現地における物資調達が著しく困難であることが明らかになった。 理由の第一は、この地域が1741年から1743年まで戦場となっていたことから、もともと調達できるような余剰の物資が少なかったことである。オーストリア継承戦争前半においてモルダウ川はフランス軍、バイエルン軍、オーストリア軍の攻防の焦点となり、彼らによって現地調達が繰り返された結果、麦や飼葉の貯蔵がもともと無かったのである。 理由の第二は、オーストリアのベーメンにおける統制強化である。継承戦争初期にベーメン貴族たちがオーストリアを見限ってカール・アルブレヒト支持に走ったことを忘れなかったマリア・テレジアは、1743年にベーメンを奪還した後、占領軍に協力した現地貴族を裁く裁判を行い、ベーメン貴族に対する統制を大幅に強化した。この結果、1744年にプロイセン軍が侵攻した際、多くの貴族が馬車を連ねてウィーンに逃亡し、残った貴族もプロイセンへの協力を拒否して、通常行われる手段である、在地貴族に協力を要求することによって円滑に物資を調達するということが出来なかったのである。 理由の第三は、ベーメンでは三十年戦争後、住民の再カトリック化が成功しており、シュレージエンの時のように現地住民の協力を得ることが出来なかったことである。第一次シュレージエン戦争においてプロイセン軍はシュレージエンで解放者として歓迎され、各面での支援を受けることが出来たが、ベーメンではそれがなく、かえって貴族たちの指導により、プロイセン軍が接近するや農民たちは食料を埋め、干し草に火をかけて逃亡した。これに対してフス派の流れを汲む隠れプロテスタントがプロイセン軍に協力を申し出ることもあったが、あまりにも数が少なく、補給面での頼りにはならなかった。 理由の第四は、オーストリアの展開した軽騎兵フザールと軽歩兵パンドゥールによるプロイセン軍への波状攻撃である。第一次シュレージエン戦争でプロイセン軍を苦しめた彼らは、より大規模に展開してプロイセン軍の補給部隊を襲い、また神出鬼没の彼らの存在は、各部隊の指揮官に徴発部隊を出すことについて二の足を踏ませ、食糧不足をより深刻化させた。 これらの結果、モルダウ川を南下しているこの時点で早くもプロイセン軍の食糧事情は急速に悪化した。まず飼葉不足から輸送部隊の牛馬が多数衰弱、病死し始め、次いで兵の食糧が不足した。策源であるプラハからの輸送で急場を凌ごうにも車両不足と牛馬の喪失、そして輸送部隊への襲撃のためにそれは不可能となっていた。9月末から10月にかけてプロイセン軍には飢餓状態が出現し、それはベーメンからの完全撤退まで解決することがなかった。軍中に疾病者が溢れ、脱走兵の数は日増しに多くなった。士気は底なしに下がり、11月に入るころには、プロイセン軍は崩壊に瀕していた。
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