三十年戦争後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:39 UTC 版)
マールブルクの相続に関するダルムシュタットとカッセルとの何十年にもわたる戦いは、部分的には三十年戦争とも多く関わった。この戦争で、カッセルはスウェーデン陣営、ダルムシュタットはこれと対立する皇帝側として参戦した。マールブルク市とその要塞は、1623年に一時的にティリー伯の軍勢によって占領された。この遺領をダルムシュタットに与えると定めた1627年の「ハウプト・アコルト(主要協定)」も、この争いの最終決着とはならなかった。カッセル方伯妃アマーリエ・エリーザベトは1645年にマールブルクを包囲し、ヘッセン戦争の口火を切った。この戦争は 3 年後にカッセル側の勝利で終結した。オーバーヘッセンは最終的に分割され、マールブルクはカッセル側、ビーデンコプフを含むヘッシシェ・ヒンターラントとギーセンはダルムシュタット側の所領となった。この後マールブルクの重要性はさらに低下し、地方行政都市あるいは防衛拠点の1つに過ぎなくなった。 ドイツ最古の眼鏡工場の1つであるマールブルガー・アウゲンオプティカー・ウンケル(マールブルク・ウンケル眼鏡)が1708年に開業した。 ナポレオン戦争の経過に伴ってマールブルク城の防衛施設は1773年から取り壊されていった。ジェローム・ボナパルトのヴェストファーレン王国において、マールブルクはヴェラ県の県庁所在地となった。それまでこの町に対して極めて強い影響力を保持していたマールブルクのドイツ騎士団もこの時期に解体された。 1850年に鉄道カッセル - マールブルク線が開業され、1852年にはフランクフルト・アム・マインまで延長された(マイン=ヴェーザー鉄道)。これによりマールブルクは、ラーン川の東岸に、市の発展に大きく影響する駅を獲得した。
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