三十年戦争の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「三十年戦争の終結」の解説
詳細は「シュテッティン条約 (1630年)」および「シュテッティン条約 (1653年)」を参照 フリードリヒ・ヴィルヘルムが即位したとき、ブランデンブルク=プロイセンはちょうど三十年戦争による政治、経済、人口の危機に陥っている最中であった。フリードリヒ・ヴィルヘルムは即位直後にブランデンブルク軍を解散したが、1643年/1644年に軍を再建した。このとき、フリードリヒ・ヴィルヘルムがスウェーデンとの和約および中立協定を締結したという説があるが、締結しなかったとする異説もある。というのも、1641年の条約とされる文書は存在するものの、条約が批准されたことはなく、また偽造であるとする指摘も多かった。いずれにしても、フリードリヒ・ヴィルヘルムの手腕によりブランデンブルク=プロイセンが再び成長に向かったのは定説となっている。 戦争の行方については、スウェーデン軍が北ドイツを支配しており、さらにベールヴァルデ条約でフランス王国と同盟したため、スウェーデンは1648年のヴェストファーレン条約の交渉を牛耳ることになった。スウェーデンがドイツ北部海岸に属領(英語版)を獲得してバルト海を支配するという野望を抱えていたため、フリードリヒ・ヴィルヘルムがポンメルンのシュテッティンを領有してオーデル川の河口を支配するという野望は潰えた。 歴代ブランデンブルク選帝侯は(ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯に就任する以前の時代でも)北への拡張(英語版)を通じてバルト海への出口を獲得しようとしていた。1529年のグリムニッツ条約により、ポンメルン公国を治めるポンメルン家が断絶した場合、ブランデンブルク選帝侯による継承が保証された。そのため、ポンメルン家最後のポンメルン公ボギスラフ14世(英語版)が1637年に死去すると、ブランデンブルク選帝侯がポンメルン公国を継承するはずだったが、ボギスラフ14世は1630年のシュテッティン条約で公国の実質的な支配権をスウェーデンに譲渡しており、スウェーデンはボギスラフ14世の死後もブランデンブルクの主張に従わなかった。結局、ヴェストファーレン条約でポンメルン公国をブランデンブルクとスウェーデンの間で分割することが定められ、国境線は1653年のシュテッティン条約で定められた。これにより、スウェーデンはオーデル川下流を含む西ポンメルン(スウェーデン領ポメラニア)を領有、ブランデンブルクは東ポンメルン(ヒンターポンメルン(英語版))を領有した。フリードリヒ・ヴィルヘルムはポンメルン分割という結果に満足しておらず、以降ポンメルン全体の領有がフリードリヒ・ヴィルヘルムの外交政策における目標の1つとなった。 ヴェストファーレン条約において、フリードリヒ・ヴィルヘルムは西ポンメルンを領有しない代償としてミンデン(英語版)とハーベルシュタット(英語版)の2司教領を世俗化させて併合、マクデブルク大司教領(英語版)を世俗化した上での継承権を得た。それ以外にもデレンブルク(英語版)、レーゲンシュタイン伯領(英語版)、クレッテンベルク伯領(ドイツ語版)、ローラ伯領(ドイツ語版)といった小規模な領土を獲得した。フリードリヒ・ヴィルヘルムが領土獲得を果たした背景にはフランスがホーエンツォレルン家を強化してハプスブルク家との間の勢力均衡を図りたいという意向がある。フリードリヒ・ヴィルヘルム自身はこれらの領土より西ポンメルンのほうが重要という考えだったが、これらの領土は長期的にはプロイセンのドイツにおける覇権争いに役に立つこととなった。
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