三十年戦争による損害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:02 UTC 版)
「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「三十年戦争による損害」の解説
ブランデンブルク=プロイセンの領地のうち、三十年戦争で最も大きな破壊を受けたのはブランデンブルク選帝侯領だった。戦前の時点でも、ブランデンブルク選帝侯領は神聖ローマ帝国の他地域と比べて人口密度が低く、あまり豊かではなかったが、三十年戦争でさらに60の町、48の城、約5,000の村が破壊された。人口の約5割が死亡し、一部地域では9割が死亡したほどだった。郊外に住む人口は死亡と都市への逃亡により戦前の30万から戦後の7万5千に減った。ベルリン=ケルン(英語版)とフランクフルト・アン・デア・オーダーではそれぞれ3分の1と3分の2の人口減だった。この傾向は新しく獲得した領土でも同じであり、ポンメルンでは住民の3分の2が死亡し、マクデブルクは帝国の中でも富裕な都市だったが焼き討ちに遭って住民のほとんどが虐殺された。被害の最も少ない地域はポーランド・スウェーデン戦争(英語版)にしか関与していないプロイセン公国、そしてミンデン司教領(英語版)である。 戦後は復興に向けた努力がなされたものの、一部地域では三十年戦争前の人口密度に戻ったのは18世紀中旬になってのこととなった。
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