三十年戦争に参戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 13:54 UTC 版)
「クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の記事における「三十年戦争に参戦」の解説
父の死後、クリスティアンは母方の叔父のデンマーク・ノルウェー王クリスチャン4世の元で教育され、ヘルムシュテット大学に入学した。一族のハルバーシュタット司教ルドルフが1616年に死ぬと、プロテスタント信徒ながらクリスティアンが後継としてハルバーシュタット司教領の監督に選出された。司教領の監督職を得た事でクリスティアンは豊かな財源を自由に出来るようになり、彼はこの財源を背景に軍事指導者として活躍した。 1621年、クリスティアンはオラニエ公マウリッツの軍隊に加わり、ネーデルラントでスペイン軍と戦った。その後、クリスティアンは自分の軍隊を組織し、ボヘミア王兼プファルツ選帝侯フリードリヒ5世配下の将軍として3つの重要な戦闘に参加した。ヘーヒストの戦い(1622年)、フルーリュスの戦い(1622年)、そしてシュタットローンの戦い(1623年)である。 クリスティアンはフランス=ドイツ国境、ネーデルラント全域での略奪や焼き討ちに加わり、傭兵隊長エルンスト・フォン・マンスフェルト伯爵と一緒にカトリック軍のティリー伯とヘーヒスト及びシュタットローンで戦ったが、2度とも敗れている。しかしフルーリュスでは大きな勝利を挙げ、彼の活躍のおかげでプロテスタント派の拠点都市ベルゲン・オプ・ゾームは解放された。 騎兵戦を好むクリスティアンは、残酷な乱暴者だと敵のカトリック派から非難された。カトリック派の敵達は彼の戦争での野蛮ぶりから、彼に「狂信者」のあだ名をつけた。この評判はおそらく皇帝派のパンフレットが出所であり、一部の人々はこの評判を不当なものだと考えている。
※この「三十年戦争に参戦」の解説は、「クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の解説の一部です。
「三十年戦争に参戦」を含む「クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の記事については、「クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の概要を参照ください。
- 三十年戦争に参戦のページへのリンク