三十年戦争と絶対君主制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:58 UTC 版)
「エルリングハウゼン」の記事における「三十年戦争と絶対君主制」の解説
村には、都市とは異なり、敵や侵入者から護るための市壁を有していない。石壁で囲うのではなく「シュリング」を設けた。これは幅 60 m ほどの棘のある木やクマシデの木で生け垣を設け、狭い小径だけがその中を通るようにしたものである。後にこの種の防衛施設は「ラントヴェール」という概念で総称されるようになった。エルリングハウゼンでは、メスドールシュリング(またはミストトーアシュリング)がメインストリートのマルクト通りを遮っており、夜間は遮断棒で護られていた。遮断棒を管理する権限を持つ住民は「シュリングヒューター」(ヒューター = Hüter = 番人)と呼ばれた。槍や矛で武装した2人の男性が通りをパトロールする夜警が、19世紀になるまでエルリングハウゼンの住民には義務づけられていた。 三十年戦争の最初の影響がエルリングハウゼンに及んだのは1622年末であった。カトリックの帝国等族たちが同盟に基づきリッペ国境付近で徴兵を行ったのである。翌年の夏、騎兵の一部隊がエルリングハウゼンを急襲し、略奪を行い、村を荒廃させた。住民の救援要請をリッペ=デトモルト伯ジーモン7世 (リッペ伯)(ドイツ語版、英語版)は無視した。エルリングハウゼンの住民は、その後何度も、兵士の宿営に苦しめられた。1633年、スウェーデン王配下の50騎の騎馬隊がエルリングハウゼン村を襲った。住民は貴重品を教会に運び込んだ。プロテスタントのスウェーデン軍は教会に危害を加えないだろうと信頼したのである。これは悲劇的にも完全な誤解であった、兵士たちは価値があると思われるものをすべて奪い去った。 恐ろしい戦争の後、帝国が失った影響力を埋め合わせるように地域支配者の権力が増大した。フランス王ルイ14世(1638年 – 1715年)がそのモデルとなり、熱心な模倣者を生んだ。リッペ領主家においても絶対君主制が発達し、フリードリヒ・アドルフ (リッペ伯)(ドイツ語版)の治世(在位1697年から1718年)にピークとなった。庭園や豪華な建築物が贅沢に拡充された。これらの建造物は当時注目を集めたが、領邦財政に壊滅的な影響を及ぼした。責任者は常に新しい手を考え出しては、住民の金で国庫を満たし、今日では想像もできない方法で臣民の私生活を侵害していた。たとえば、コーヒーを焙煎したり飲んだりすると、さらには、葬儀や埋葬の際に黒い服を着ただけで、罰金を課された。施行されている法律の違反者を告発すると、告発者の罰金の 1/3 が免除されるため、密告が横行した。
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