三十年戦争から19世紀初頭まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 03:11 UTC 版)
「バート・アーロルゼン」の記事における「三十年戦争から19世紀初頭まで」の解説
三十年戦争では、城館は1622年から防備を拡充した。1634年に工事は完了し、住人は襲撃や略奪から一層護られるようになった。ヴァルデック=アイゼンベルク伯で後に侯となるゲオルク・フリードリヒは1668年に休息のための城館「シャルロッテンタール」を建設した。この城は1670年頃に造営されたグローセ・アレー(直訳すると「広い並木道」)の西端にあたる。1677年に古い城館は改修され、伯家のアイゼンベルク系一門はその宮廷をローデンから興隆著しいアーロルゼンに移した。 1706年にフリードリヒ・アントン・ウルリヒ伯が君主となった後、宮殿の新築が計画され、1710年に着手された。この宮殿は、建築家ユリウス・ルートヴィヒ・ロートヴァイルによるヴェルサイユ宮殿を模した近代的バロック建築の構想に基づいて建設された。内装は、アンドレア・ガラジーニとルドヴィーコ・カステッリによる。伯家は1711年に改築工事が完了した「シャルロッテンタール城」を「ルイーゼンタール城」と改名した。同じ年にフリードリヒ・アントン・ウルリヒは帝国諸侯に昇格し、1717年に世襲の侯位を得たことが公布された。この年にフリードリヒ・アントン・ウルリヒ侯はノイシュタット・アーロルゼンに3軒の建物を建設した。 1719年に「ノイシュタット・アーロルゼンの創設に対する特権と自由権」が文書化された。その翌年に宮殿はやっと侯爵夫妻の入城を得たが、完成にはまだ程遠かった。1725年に休息のための城ルイーゼンタールは取り壊された。フリードリヒ・アントン・ウルリヒ侯は22年の統治の後、1728年に逝去した。同じ年、上級官庁はその所在地をメンゲリングハウゼン(現在はバート・アーロルゼン市内)から宮廷所在地に移した。 このまだ若い都市は、1731年に、3つの市場を開く権利を獲得した。翌1732年、新たに設けられた墓地で最初の葬儀が執り行われた。1735年に礎石が据えられ、最初の教会建設が始まった。この市教会が完成するまでにはその後52年を要し、1787年に献堂された。それ以前の1770年にプロテスタント・ルター派の教会組織はそれまでの親組織から離れ、独立した組織となった。 古典主義様式の建築家で、ベルリン建築派の創始者でもあるクリスティアン・ダニエル・ラウフは1777年にアーロルゼンの「ホッペンホーフ」で生まれた。 侯妃クリスティアーネの居館「ノイエス・シューレ(直訳すると、新しい城館)」は、1787年に完成し、市教会の建設もこの年に完了した。アーロルゼンは1803年にさらなる市場開催権を授けられた。アウグスト市場は自体と共に拡張され、現在の「クラーム・ウント・フィーマルクト(直訳すると、ガラクタと家畜の市場)」となった。 アーロルゼン市からは、偉大な人物が他にも生まれている: ヴィルヘルム・カウルバッハは画家として知られ、ミュンヘンのアカデミー学長を務めた。フリードリヒ・カウルバッハはやはり画家で、後にハノーファー工科大学の教授を務めた。
※この「三十年戦争から19世紀初頭まで」の解説は、「バート・アーロルゼン」の解説の一部です。
「三十年戦争から19世紀初頭まで」を含む「バート・アーロルゼン」の記事については、「バート・アーロルゼン」の概要を参照ください。
- 三十年戦争から19世紀初頭までのページへのリンク