三十年戦争、ペスト、飢餓(1597年 - 1661年)
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「ダルムシュタットの歴史」の記事における「三十年戦争、ペスト、飢餓(1597年 - 1661年)」の解説
ゲオルク1世の息子のルートヴィヒ5世は、最初は父の始めた拡張・新設工事を引き継ぎ、ダルムシュタットはさらに発展して行った。しかし1604年からヘッセン=マールブルク方伯の遺産を巡ってヘッセン=カッセル方伯と争いを始め、さらに1618年の三十年戦争の開始によりダルムシュタットは危機へと突入していった。 1626年にルートヴィヒ5世の息子であるゲオルク2世が即位したことで、都市内の少数派住民(たとえばユダヤ人など)の立場も変わっていった。帝国のどこにいても差別されていた彼らであったが、ゲオルク1世はその権利を保障し、比較的問題なくそれぞれの稼業に専念することができていた。だが、戦争はキリスト教徒とユダヤ教徒の関係を悪化させ、ユダヤ人の経済的な地位に対する反感を呼び起こした。ゲオルク2世は即位の直後に全ユダヤ人に対して退去を要求した。彼はユダヤ人追放を要求する市参事会の支持を得ており、1627年8月1日の期限までにダルムシュタットから立ち去ること、この期限以後はいかなるユダヤ人もその安全を保障されないことを宣言した。これに対しユダヤ人は帝国最高法院の判決に護られ追放を回避した。ゲオルク2世は1629年2月20日のユダヤ人令で譲歩はしたものの、大きな制約をユダヤ人に課したのであった。 1630年から戦争は激しさを増していった。ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム5世はスウェーデン王グスタフ2世アドルフと同盟を結んだ。これを承けてヘッセン=ダルムシュタット方伯ゲオルク2世は皇帝側に立った。これによりマールブルクを巡る争いにおいてもスウェーデンはヘッセン=カッセル方伯を支援した。これに対してゲオルク2世は皇帝の出馬を急がせようと試みた。結局ギーセンの方が防衛に有利だと判断したゲオルク2世はダルムシュタットを離れた。彼がダルムシュタットに戻るのは戦争が終わった後の1649年になってからであった。 その後1632年から1633年の冬にダルムシュタットでペストが流行し、1635年までに2,000人の犠牲者が出た。同じ年にフランス軍が無抵抗のこの都市を数週間にわたって占領した。これにより街には大きな被害がもたらされ、周辺の町村は略奪され、中には火を付けられた集落もあった。畑も荒らされ飢餓に襲われた。1639年にこの都市はまたもや占領された。今度はバイエルンの軍勢であった。そして都市は今度もまた荒らされたのである。 方伯がギーセンに滞在している間にもダルムシュタットの周辺地方は危機に瀕していた。周辺の村から市壁の中は安全だと誤解した逃亡者らが都市の中へ逃げ込み、ペストの新たな温床を持ち込んでいた。1647年4月にフランス軍がまた戦闘無しにこの都市に進出した。廃墟の縁でダルムシュタットはこの軍勢の面倒を見ねばならず、市参事は貧しい市民達には破滅が待つだけだと公言して憚らなくなっていた。かつてはダルムシュタットに隆盛をもたらしたベルクシュトラーセ沿いという好位置が裏目に出て、常にこの街道を行き来する軍隊を宿泊させなければならない事になり、経済的な負担の限界に来ていた。 ヴェストファーレン条約によって戦争が終結すると、ダルムシュタットはゆっくりと回復に向かった。戦争直後から緩やかな再興がなされ、方伯と市参事の間で行政運営の細部にわたる権力闘争が行われた。市参事達は方伯によって自分たちの権利を削減しようとしており、絶対君主制が間近に迫ったことを感じていた。
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