ヴェストファーレン条約
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ヴェストファーレン条約(ヴェストファーレンじょうやく、羅: Pax Westphalica、独: Westfälischer Friede)は、1648年に締結された三十年戦争の講和条約で、ミュンスター講和条約とオスナブリュック講和条約の総称である[1]。ラテン語・英語読みでウェストファリア条約とも呼ばれる。近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖ともいうべき条約である[1][2]。
注釈
出典
- ^ a b c d e 木谷(1975)pp.21-24
- ^ a b c d e f 菊池(2003)pp.214-219
- ^ 明石『ウェストファリア条約』3頁、48頁。
- ^ 中嶋(1992)p.190
- ^ a b 明石『ウェストファリア条約』21頁注1。
- ^ 明石『ウェストファリア条約』40-41頁。
- ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。ポーランドを不参加とする説があるが、使節を参加させていたようである(同書78-79頁注21)。
- ^ 明石『ウェストファリア条約』41頁。
- ^ 明石『ウェストファリア条約』60-61頁。
- ^ オスナブリュック講和条約第17条、明石『ウェストファリア条約』65-66頁に訳出。明石は、参加しない者が講和に含まれたのは、全ヨーロッパ的な平和状態への移行をともにする、という意味合いだと説く(同書68-69頁)。
- ^ a b c d e f g h i j k l 木谷(1975)pp.24-29
- ^ a b c d e f g h i j 菊池(2003)pp.223-226
- 1 ヴェストファーレン条約とは
- 2 ヴェストファーレン条約の概要
- 3 影響
- 4 評価
- 5 脚注
- 6 外部リンク
ヴェストファーレン条約
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「ヴェストファーレン条約」の解説
詳細は「ヴェストファーレン条約」および「ヴェストファーレン体制」を参照 1647年10月、スペイン王室は17世紀に入って3度目の破産布告を発し、翌年1月にドイツ西部ヴェストファーレン地方のミュンスターにおいてオランダとの講和条約に調印し、八十年戦争が終結した。スペインはオランダの独立を認めるとともに、国境線の画定をおこなった。同年10月にはスウェーデン軍にボヘミアの首邑プラハを攻囲された神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が、ミュンスターとそれに約44キロメートル離れたオスナブリュックで話し合われてきた三十年戦争の講和条約に、ついに応じざるを得なくなった。この話し合いには、1645年からの3年間でヨーロッパ諸国とドイツ諸邦の君主194名、全権委任者176名が加わり、ヨーロッパ初の国際会議となった。こうして1648年10月24日、オスナブリュックの講和条約、通称「ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)」が調印された。 ヴェストファーレン条約の内容は、大きくは国際問題にかかわることとドイツの国内問題にかかわることに分けられ、前者においては領土変更ないし確定が合意された。ロレーヌ(ロートリンゲン)のメス(メッツ)、トゥール、ヴェルダンやアルザス(エルザス)の一部スンゴー(フランス語版、ドイツ語版)(ズントガウ)などがフランスに割譲され、フランスの勢力が一部ではあるがライン川に達した。スウェーデンはシュチェチン(現、ポーランド)を含む西ポンメルンのほか、フェルデンとブレーメンの大司教領を獲得したうえ、神聖ローマ帝国の議席も得た。このようにフランスとスウェーデンは三十年戦争の最大の勝利者であり、この条約の保証国となった。また、スイス連邦とネーデルラント連邦(オランダ)は神聖ローマ帝国に対する法的な諸義務から解放され、主権をもつ独立の共和国として正式に承認された。スイスの独立は、三十年戦争を通じて終始中立を維持してきた結果であった。一方、スペインが和平の対象から外された結果、フランスとスペインの抗争は1659年のピレネー条約まで続いた。スペインとしてはオランダと単独講和したことにより、フランスとの戦争を継続できたわけである。ドイツ諸侯の得失はフランス、スウェーデン、オーストリアの都合次第で決定され、西ポンメルンを失った代わりに東ポンメルンを得たほか、カミンやハルバーシュタット、ミンデンの諸司教領を加えたブンランデンブルクが北ドイツの雄として登場することとなった。 ドイツの国内問題としては、宗教問題と帝国国制の問題がある。宗教問題に関してはアウクスブルクの平和令の有効性が再確認された。ただ、宗派的対立の原因のひとつとなった1552年を基準とする「聖職者にかんする留保」の条項が破棄された代わりに1624年を標準年と定め、その時点での宗派の分布が基準とされた。また、カルヴァン派も公認され、カトリックやルター派と並ぶ権利を獲得した。さらに、今後の宗教問題に関しては帝国議会内で福音主義団(プロテスタント会派)とカトリック会派が別々に協議したうえで、多数決ではなく両者の合意によって決定されることとした。これにより、宗教問題が帝国内の紛争の原因となることは原則なくなった。また、ハプスブルク諸領域以外にあっては、公認の諸宗派に属さない信徒であっても、私的な礼拝や良心の自由、移住の権利が認められたが、神聖ローマ帝国内においては、信教の自由は領邦君主にのみ許されるという原理は変わらず、個人の宗派選択の自由は認められなかった。 国制にあっては神聖ローマ皇帝の権限が大きく後退し、帝国等族の権利が強化された。宣戦布告や法の発布など、帝国の重要な決定にあたっては必ず帝国等族の同意が必要とされた。また、帝国等族が従来有していた諸権利が改めて承認されるとともに、皇帝と帝国への忠誠に反しない限りという留保をともないつつも外国との交戦権や条約調印権さえ認められた。これにより、諸侯は国際法上の主権も一部認められたことになる。かくして、皇帝による一元的支配の追求と諸侯の側の連邦制への志向の間で起こった1世紀におよぶ闘争の歴史は終焉し、皇帝と帝国等族の二元主義は帝国等族の側に大きく傾いて「ドイツの自由」が国是となった。ただし、ここにおける自由とは「帝国等族の自由」であり、それをフランスとスウェーデンが強国として保証しようということであった。その意味ではドイツの国民国家としての統一と権力国家への発展の道が阻害され、ドイツの政治的後進性とハプスブルク家の弱体化がもたらされた。他方、連邦制的な領邦の分裂は文化や教育の普及などをもたらし、この面では集権的国家よりむしろ優れた面をもっていた。また、ハプスブルク家に関しては、オーストリア固有の領土の安定性はこの体制下においてむしろ著しく向上したのであり、こののち南ドイツ最大のカトリック国として再出発し、東のオスマン帝国との紛争を経て東西の勢力バランスの逆転に成功し、ヨーロッパ屈指の大国に変貌する基となった。 以上、ヴェストファーレン条約によって形成された新しい国際秩序を「ヴェストファーレン体制(ウェストファリア体制)」と呼ぶことがある。ここでは、ヨーロッパの平和を初めて国際会議によって保証し、多国間交渉によって勢力均衡の視点が芽生えたことに画期性が認められる。さらに、世界史の文脈では国家における領土主権、領域内の法的主権、主権国家による相互内政不可侵の諸原理が確立され、近代外交や現代につながる国際法の根本原則が確立されたとして、「ヴェストファーレン体制=主権国家体制」として高く評価されてきた。ただし、近年ではヴェストファーレン条約によって国際法が確立したというのは過大評価であり、「19世紀の神話」にすぎないという指摘、あるいは北欧に関してはヴェストファーレン条約ではなく1660年のオリヴァ条約、スペインに関しては1659年のピレネー条約がもたらした秩序の方がいっそう重要であり、その意味では「未完の国際秩序」であったという指摘がある。
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