アウグスブルク‐の‐わぎ【アウグスブルクの和議】
アウクスブルクの和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 23:01 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2021年7月) ( |

アウクスブルクの和議(アウクスブルクのわぎ、ドイツ語:Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)は、神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会において1555年9月25日になされた、ドイツ・中欧地域におけるルター派(プロテスタント)容認の決議である。アウクスブルクの宗教和議ともいう。
これによりハプスブルク家のカトリック教会を介した帝国支配の野望は挫折するが、一方ではカルヴァン派の信仰も認められなかった。また、個人の信仰は認められずに、信仰の選択はあくまで都市や領主が決定するものとした。このことは将来に禍根を残し、三十年戦争の契機ともなった。
背景
1526年、神聖ローマ皇帝カール5世は、東方からのオスマン帝国の圧力が強まる中、シュパイエル(Speyer)における帝国議会でルター派諸侯に譲歩した。このことは、領邦君主が領内の教会を統制下におく、領邦教会体制の出発点として位置づけられている。しかし、1529年に同地で再び開催された帝国議会で前回の決定を撤回し、再びカトリック政策の徹底を図ったため、ルター派諸侯らは、この決定に対する抗議文(protestantio)を提出した。翌年にユダヤ人が宗教革命を企てたとする非難が起こり、宮廷ユダヤ人のヨーゼル・ロスハイムが帝国議会で抗議した。ルター派諸侯は1531年にシュマルカルデン同盟を結び、領内のカトリック教会の財産没収などの挙に出た。
以後、同盟とカール5世の反目が続いたが、フランスとのイタリア戦争に奔走していたこともあり、両勢力の本格的な衝突は回避された。しかし、1544年に一応の講和が成立した。ここでユダヤ人は従来どおり、キリスト教金融機関よりも高い利子で金を貸すことが認められた。そしてカール5世はトリエント公会議などを通じてカトリック勢力の再結集を図り、1546年よりルター派諸侯とも争うことになった(シュマルカルデン戦争)。
この戦争において同盟軍を撃破したカール5世が1度はカトリック優位のアウクスブルク仮信条協定を結んで勢威を拡大したが、1552年にザクセン選帝侯モーリッツが同盟側に付いたことや、ハプスブルク家の財政難が深刻化していたことから、同年パッサウにて開催された諸侯会議でパッサウ条約を締結、次の議会をもって新旧両教派の対立を終息させるとの申し合わせがなされた。同年に反対派のブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスが反乱を起こし(第二次辺境伯戦争)、モーリッツが討ち取られるなどの事態となったが、1554年にアルブレヒト・アルキビアデスは国外追放となった。
パッサウ条約を受けて、ローマ王フェルディナント(カール5世の弟)は1555年2月、アウクスブルクに帝国議会を招集し、同年9月25日、一応の和議が成立した。これがアウクスブルクの和議(アウクスブルクの宗教平和令)である。
内容・影響
影響
この和議において、領邦君主にカトリック、ルター派の宗教選択権が認められた。ルター派を支持する諸侯がカトリック教会・修道院の組織・財産を統制下におくことを事実上認める決定であり、これを以って領邦教会体制が確立したとされる。
この後、自らの勢力を強めた領邦君主は、徐々に領内の自由都市にも統制を強めて特権などを剥奪していくことになり、領邦国家ごとの集権化が推進された。
アウクスブルクの和議では1526年の第一回シュパイアー帝国議会が確認された[1]。
内容
アウクスブルク宗教平和令は以下のように定めた[2]。
- 帝国に平和をもたらすために、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力は禁止する。ただし、カルヴァン派とツヴィングリ派、再洗礼派は異端とみなされ除外された[3]。
- 諸侯の信仰は自由であり、自領の信仰(ルター派かカトリック教会)を選ぶことができ、そして領民にはその信仰に従わせるとした。これは「領土が属するところの者に宗教も属する」(cuius regio, eius religio「ひとりの支配者のいるところ、ひとつの宗教)原則とされ、領邦教会制の基盤が形成されていった[3]。
- 帝国都市では従来二つの宗教がおこなわれてきた場合には将来もそうあるべきである(27条)とし、諸侯のような宗派選択権は都市には認められなかった[3]。また国王と諸侯は、都市における水平的仲間関係の平等原理に対して、市民は仲間の市民に支配権を行使できないため都市には統治権がないとした[3]。両派の容認は都市内の少数派であったカトリックの擁護でもあった[3]。宗教改革によって活性化された自治の精神は奪われ、都市勢力は地盤沈下した[3]。
- ルター派は1552年のパッサウ条約以降にカトリック教会から獲得した領地を保つことができる。
- ルター派に改宗した司教領主は自らの領地を放棄して、カトリック教会に明け渡す必要がある。すなわち、’’reservatum ecclesiasticum’’(聖職者にかんする留保、教会的留保、教会領維持) の原則であり、カトリック司教の改宗の禁止を意味した[4]。しかし、フェルディナンド宣言ですでに長期にわたってルター派である騎士と都市はルター派にとどまることが許された[3]。
アウクスブルクの和議は教皇はあまり関わらず皇帝と諸侯の間で交わされたものであったが、この和議は一時の妥協にすぎず、その後も新旧両派は自らの勢力拡大に努めた[2]。
脚注
出典
- ^ the Diet of Speyer,in Britannica Online Encyclopedia,“Lutheran church organization and confessionalization,The Reformation”. www.britannica.com. 2017年7月12日閲覧。
- ^ a b 木村編 2001, pp.99-117.
- ^ a b c d e f g #木村・成瀬・山田編 1997,pp.465-466
- ^ Sigfrid 1973
参考文献
- 『ドイツ史 1』木村靖二・ 成瀬治・山田欣吾編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年7月。
- 『ドイツ史 2』木村靖二・ 成瀬治・山田欣吾編、山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年7月。
- 『ドイツ史』木村靖二編、山川出版社〈世界各国史13〉、2001年8月。
- Sigfrid Henry Steinberg、成瀬治訳 『三十年戦争』〈ブリタニカ国際百科事典〉、1973(1988年改訂)、401-409頁。
関連項目
外部リンク
- 『アウクスブルクの和議』 - コトバンク
- 『アウクスブルクの宗教和議』 - コトバンク
アウクスブルクの和議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)
「神聖ローマ帝国」の記事における「アウクスブルクの和議」の解説
詳細は「シュマルカルデン同盟」、「シュマルカルデン戦争」、および「アウクスブルクの和議」を参照 同年、カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会を開催した。ルター派は弁証書としてフィリップ・メランヒトン起草による「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、ツヴィングリやシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出し、プロテスタント内部の宗派分裂も明らかとなった。議会ではカトリックが優勢を占め、最終的決定は翌年の議会に持ち越されたものの、カール5世はルターを帝国追放刑にしプロテスタントを異端とする1521年のヴォルムス勅令を暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。 翌1531年に弟フェルディナンドをローマ王に推戴させて後継体制を固めるとカール5世は広大なハプスブルク帝国の統治のためにネーデルラント、ブルゴーニュへと居を移した。同年にはアントワープ証券取引所も設立した。またオスマン帝国の脅威にも対処せねばならず、1535年には地中海を渡りチュニスにまで遠征している。1536年にフランス王フランソワ1世がミラノ公国継承を主張してイタリアに侵攻し、イタリア戦争が再開した。 一方、プロテスタントの帝国諸侯・諸都市はアウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり、軍事同盟結成を協議し、翌1531年2月にヘッセン方伯とザクセン選帝侯を盟主とするシュマルカルデン同盟が結成された。宗教戦争が一触即発に迫ったが、カール5世は妥協し1532年にニュルンベルクの宗教平和によって暫定的にプロテスタントの宗教的立場が保障された。この宗教平和を境にプロテスタントは勢力を一気に拡大した。南ドイツのヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒが1534年に復位し、北ドイツでも同年ポメルン公、1539年にザクセン公とブランデンブルク選帝侯がプロテスタントに転じた。西南ドイツではルター派とは異なる改革派信仰が広がっていたが、教義上の問題で妥協し(ヴィッテンベルク一致信条)、プロテスタントの政治勢力は統一性を持つようになった。カトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟を結成し、プロテスタントに対抗した。 この時期、スイスでは新しい動きが起こっていた。1536年にプロテスタント神学の基礎と評価される『キリスト教綱要』を著わしたフランスの神学者ジャン・カルヴァンが亡命生活中に立ち寄ったジュネーヴで教会改革に参与していた。カルヴァンは教会改革を強力に指導し、教会規則を定めて平信徒も加わる長老制を創始する。彼の30年近くにわたる神権政治により、ジュネーヴは福音主義の牙城となり、カルヴァン派はやがて一大勢力に成長することになる。 1544年にフランスとのクレピー条約 (en) が締結されるとカール5世は一転ドイツ国内の問題に専心するようになった(オスマン帝国とは1547年に講和)。1546年にはルターが死去し、同年、プロテスタント陣営の盟主ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(寛大公)の一族であるザクセン公モーリッツが選帝侯の地位を条件に皇帝支持に転じた。それ以前にヘッセン方伯も重婚問題からカール5世につけこまれ、政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身に有利な条件が整ったと感じたカール5世は同年シュマルカルデン戦争をおこし、ミュールベルクの戦い (en) でシュマルカルデン同盟を壊滅させ、翌年のアウクスブルク帝国議会ではカトリックに有利な「アウクスブルク仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝は西南ドイツの帝国都市のツンフト(職業団体)が宗教改革の温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策を実施した。カール5世の強硬な政策を見て、徐々にカトリック諸侯も反皇帝に転じ、嫡男フェリペにドイツ・スペインの領土と帝位を継承させようとすると、ますます反発を招いてカール5世は孤立した。 このような情勢の中、プロテスタントから「マイセンのユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツが1552年にフランスと結んで反旗を翻して、インスブルックのカール5世を急襲する。カール5世は敗北し、パッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナントに宗教問題の解決を任せ、1555年のアウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令が議決された。この平和令により「一つの支配あるところ、一つの宗教がある」(cujus regio, ejus religio)という原則のもとに諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制することができるという領邦教会制度が成立した。ただしこの時点ではカルヴァン派・ツヴィングリ派・再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された。 また、同帝国議会で発布された帝国執行令(Reichsexekutionsordnung)は帝国クライスの役割の詳細を定め、フリードリヒ3世の時代からの一連の帝国改造運動を完了させた。同令によって帝国クライスがラント平和維持を担いクライス台帳に基づき、帝国等族の兵役分担を定めることになった。またクライスが帝国最高法院判決の執行を担うことになる。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持の名目のもと、今や皇帝の役割は帝国クライスが引きうけることになった。 翌1556年、カール5世は弟ローマ王フェルディナンドに帝位(皇帝フェルディナント1世)を、嫡男フェリペにはスペイン王位(スペイン王フェリペ2世)をそれぞれ譲位し、ハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになった。カール5世の内政および外交政策は最終的に失敗に終わった。 1558年、ハンザ同盟年であるハンブルクにもハンブルク証券取引所(ドイツ語版)が設置された。
※この「アウクスブルクの和議」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「アウクスブルクの和議」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。
- アウクスブルクの和議のページへのリンク