アウクスブルクの和議とは? わかりやすく解説

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アウグスブルク‐の‐わぎ【アウグスブルクの和議】


アウクスブルクの和議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 23:01 UTC 版)

アウクスブルクの和議(アウクスブルクのわぎ、ドイツ語Augsburger Reichs- und Religionsfrieden)は、神聖ローマ帝国アウクスブルクで開催された帝国議会において1555年9月25日になされた、ドイツ中欧地域におけるルター派プロテスタント)容認の決議である。アウクスブルクの宗教和議ともいう。


  1. ^ the Diet of Speyer,in Britannica Online Encyclopedia,Lutheran church organization and confessionalization,The Reformation”. www.britannica.com. 2017年7月12日閲覧。
  2. ^ a b 木村編 2001, pp.99-117.
  3. ^ a b c d e f g #木村・成瀬・山田編 1997,pp.465-466
  4. ^ Sigfrid 1973


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アウクスブルクの和議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「アウクスブルクの和議」の解説

詳細は「シュマルカルデン同盟」、「シュマルカルデン戦争」、および「アウクスブルクの和議」を参照 同年カール5世は約10年ぶりにドイツ入りをし、宗教解決のためのアウクスブルク帝国議会開催したルター派弁証書としてフィリップ・メランヒトン起草による「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、ツヴィングリシュトラースブルクなどの改革派4都市が独自の「信仰」を提出しプロテスタント内部宗派分裂も明らかとなった議会ではカトリック優勢占め最終的決定翌年議会持ち越されたものの、カール5世ルター帝国追放刑にしプロテスタント異端とする1521年ヴォルムス勅令暫定的とはいえ厳しく執行するよう命じた。 翌1531年に弟フェルディナンドローマ王推戴させて後継体制固めるとカール5世広大なハプスブルク帝国統治のためにネーデルラントブルゴーニュへと居を移した同年にはアントワープ証券取引所設立した。またオスマン帝国脅威にも対処せねばならず、1535年には地中海渡りチュニスにまで遠征している。1536年フランス王フランソワ1世ミラノ公国継承主張してイタリア侵攻しイタリア戦争再開した一方プロテスタント帝国諸侯・諸都市アウクスブルク帝国議会直後にシュマルカルデンに集まり軍事同盟結成協議し、翌1531年2月ヘッセン方伯ザクセン選帝侯盟主とするシュマルカルデン同盟結成された。宗教戦争一触即発迫ったが、カール5世妥協し1532年ニュルンベルク宗教平和によって暫定的にプロテスタント宗教的立場保障された。この宗教平和を境にプロテスタント勢力一気拡大した南ドイツヴュルテンベルク公領では、プロテスタントであったために追放されていたヴュルテンベルク公ウルリヒ1534年復位し北ドイツでも同年ポメルン公、1539年ザクセン公ブランデンブルク選帝侯プロテスタント転じた西南ドイツではルター派とは異な改革派信仰広がっていたが、教義上の問題妥協しヴィッテンベルク一致信条)、プロテスタント政治勢力統一性を持つようになったカトリック諸侯の側もニュルンベルク同盟結成しプロテスタント対抗した。 この時期スイスでは新しい動き起こっていた。1536年プロテスタント神学基礎評価されるキリスト教綱要』を著わしたフランス神学者ジャン・カルヴァン亡命生活中に立ち寄ったジュネーヴ教会改革参与していた。カルヴァン教会改革強力に指導し教会規則定めて平信徒も加わる長老制創始する。彼の30年近くにわたる神権政治により、ジュネーヴ福音主義牙城となり、カルヴァン派はやがて一大勢力成長することになる。 1544年フランスとのクレピー条約 (en) が締結されるカール5世一転ドイツ国内問題専心するようになったオスマン帝国とは1547年講和)。1546年にはルター死去し同年プロテスタント陣営盟主ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ寛大公)の一族であるザクセン公モーリッツ選帝侯地位条件皇帝支持転じたそれ以前ヘッセン方伯重婚問題からカール5世つけこまれ政治的に中立を守らざるをえなくなっていた。自身有利な条件整った感じたカール5世同年シュマルカルデン戦争をおこし、ミュールベルクの戦い (en) でシュマルカルデン同盟壊滅させ、翌年アウクスブルク帝国議会ではカトリック有利なアウクスブルク仮信条協定」が帝国法として発布された。皇帝西南ドイツ帝国都市ツンフト職業団体)が宗教改革温床であると考えてこれを解散させるなど強硬な政策実施したカール5世強硬な政策見て徐々にカトリック諸侯も反皇帝転じ嫡男フェリペにドイツ・スペインの領土帝位継承させようとすると、ますます反発招いてカール5世孤立したこのような情勢の中、プロテスタントから「マイセンユダ」と呼ばれたザクセン選帝侯モーリッツ1552年フランス結んで反旗を翻して、インスブルックカール5世急襲するカール5世敗北しパッサウ条約によって「仮信条協定」は破棄された。この敗北からカール5世は弟のフェルディナント宗教問題解決任せ1555年アウクスブルク帝国議会で、アウクスブルク宗教平和令議決された。この平和令により「一つ支配あるところ、一つ宗教がある」(cujus regio, ejus religio)という原則のもとに諸侯自身選んだ信仰領内強制することができるという領邦教会制度成立した。ただしこの時点ではカルヴァン派ツヴィングリ派再洗礼派などは異端とされ、信仰の自由から除外された。 また、帝国議会発布され帝国執行令Reichsexekutionsordnung)は帝国クライス役割詳細定めフリードリヒ3世時代からの一連の帝国改造運動完了させた。同令によって帝国クライスラント平和維持担いクライス台帳に基づき帝国等族兵役分担定めることになった。またクライス帝国最高法院判決執行を担うことになる。皇帝が自らの責務を果たす能力がないことを示したため、平和維持名目のもと、今や皇帝役割帝国クライスが引きうけることになった。 翌1556年カール5世は弟ローマ王フェルディナンド帝位皇帝フェルディナント1世)を、嫡男フェリペにはスペイン王位(スペイン王フェリペ2世)をそれぞれ譲位しハプスブルク家はオーストリア・ハプスブルクとスペイン・ハプスブルクとに分かれることになったカール5世内政および外交政策最終的に失敗終わった1558年ハンザ同盟年であるハンブルクにもハンブルク証券取引所ドイツ語版)が設置された。

※この「アウクスブルクの和議」の解説は、「神聖ローマ帝国」の解説の一部です。
「アウクスブルクの和議」を含む「神聖ローマ帝国」の記事については、「神聖ローマ帝国」の概要を参照ください。

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