第二次辺境伯戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 02:10 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。2021年2月) ( |
第二次辺境伯戦争(Zweite Markgrafenkrieg、単に辺境伯戦争(Markgrafenkrieg)、あるいはBundesständischer Kriegとも呼ばれる)は、1552年から1555年に神聖ローマ帝国内で戦われた戦争。
当初は、ホーエンツォレルン家によるフランケン公領創設を目論むブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスと、これに抵抗するニュルンベルク市との戦闘であったが、アルブレヒト・アルキビアデスがパッサウの和約の受け容れを拒否したことから戦渦が拡大した。アルブレヒト・アルキビアデスが行った侵略、略奪行為により、帝国内、特にフランケン地方の多くの集落や城が破壊された。被害はマインツ、ヴォルムス、オッペンハイム、メス、ヴェルダン、フランクフルト・アム・マイン、シュパイアーにも及んだ。
- 1552年6月19日:ニュルンベルクがアルブレヒト・アルキビアデスに降伏。この年から翌1553年にかけてフォルヒハイム、バンベルク、ハルシュタット、クンロイト、クリンゲンベルク・アム・マイン、ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン、エーバーマンシュタットを侵略。
- 1553年7月9日:ジーフェルスハウゼンの戦い。ザクセン選帝侯モーリッツとブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯ハインリヒ2世がアルブレヒト・アルキビアデスに勝利したが、モーリッツはこの戦いで戦死、ハインリヒ2世も2人の息子を失った。
- 1553年11月26日:ブラウンシュヴァイク、ベーメン、バンベルク、ニュルンベルク、ヴュルツブルク、及び帝国の他の地域からの軍勢を含めた連合軍によるクルムバッハへの侵攻と破壊。クルムバッハはアルブレヒト・アルキビアデスの本拠地であった。その居城プラッセンブルク城塞を包囲。
- 1554年6月:アルブレヒト・アルキビアデス、シュヴァルツァハの戦いに敗れる。
- 1554年7月:プラッセンブルク城塞を連合軍が占領した。
アルブレヒト・アルキビアデスは帝国外へ追放刑となり、逃亡しなければならなかった。翌1555年にアウクスブルクの和議が締結、1557年にアルブレヒト・アルキビアデスが亡くなり、従弟のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒがブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯を兼ねることとなった。
関連項目
第二次辺境伯戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 08:49 UTC 版)
「アルブレヒト・アルキビアデス」の記事における「第二次辺境伯戦争」の解説
第二次辺境伯戦争は、ホーエンツォレルン家によるフランケン公領の創設を目論むアルブレヒトと、主にニュルンベルク市及びフランケン、ライン地方の司教達との間で戦闘が行われた。彼は残虐行為をはたらきながら戦争を遂行し、フランケン全土の広い範囲(例えば帝国都市シュヴァインフルトなど)を荒廃させた。ニュルンベルク市が降伏した後、アルブレヒトはバンベルクとフォルヒハイムを占領し、ヴュルツブルク司教とバンベルク司教に法外な代償を要求した。また、シュパイアー司教フィリップ2世に対しても15万グルデンの免焼金を要求し、これが拒絶されるとマーデンブルク城とハムバッハ城を破壊した。この城跡は1832年にドイツの自由の象徴となった。
※この「第二次辺境伯戦争」の解説は、「アルブレヒト・アルキビアデス」の解説の一部です。
「第二次辺境伯戦争」を含む「アルブレヒト・アルキビアデス」の記事については、「アルブレヒト・アルキビアデス」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 第二次辺境伯戦争のページへのリンク