諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議」の解説
詳細は「アウクスブルクの和議」を参照 このような情勢のなか、ザクセン公が再び反皇帝・プロテスタントの側に転じ、1552年に起こった第二次辺境伯戦争ではカール5世の軍を破り、パッサウ条約を結んでアウクスブルク仮信条協定を破棄した。この敗北からカール5世は弟のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)に宗教問題の解決を任せ、1555年にアウクスブルク帝国議会を開催し、アウクスブルク宗教平和令を決議させた。 これにより、諸侯はカトリック教会かルター派教会のいずれかを選んでそれを領民に課す権利を得たと同時に、カトリックとルター派は信仰を理由とした暴力の行使を禁止されたものの、カルヴァン派やツヴィングリ派は信仰の自由の対象から除外された。また、この平和令によって諸侯の信仰の自由が認められ、領民はそれに服するべきであるとされ、やがて「一つの支配あるところ、一つの宗教がある ("Cuius regio, eius religio")」の原則のもと、諸侯が自身の選んだ信仰を領内に強制できる領邦教会制度が成立した。ただし、帝国自由都市においてはカトリック派とルター派の両派が共存できることとした。また、大司教などの聖職者が改宗した場合にはそのすべての権限を失い、領地を放棄してカトリック教会に明け渡す必要があるとした一方、パッサウ条約(1552年)時点でルター派のもとにあったすべての財産はそのままにすることとした。前者は、「聖職者に関する留保(英語版)(教会的留保、教会領維持)」の原則と呼ばれるものであり、事実上、カトリック司教の改宗の禁止を意味していた。この規程は、後年の三十年戦争に至る対立の原因となった。
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