諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議とは? わかりやすく解説

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諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議」の解説

詳細は「アウクスブルクの和議」を参照 このような情勢のなか、ザクセン公が再び反皇帝プロテスタントの側に転じ1552年起こった第二次辺境伯戦争ではカール5世の軍を破りパッサウ条約結んでアウクスブルク仮信条協定破棄した。この敗北からカール5世は弟のフェルディナント(のちの神聖ローマ皇帝フェルディナント1世)に宗教問題解決任せ1555年アウクスブルク帝国議会開催しアウクスブルク宗教平和令決議させた。 これにより、諸侯カトリック教会ルター派教会いずれか選んでそれを領民課す権利得た同時にカトリックルター派信仰理由とした暴力行使禁止されたものの、カルヴァン派ツヴィングリ派信仰の自由対象から除外された。また、この平和令によって諸侯信仰の自由認められ領民はそれに服するべきであるとされ、やがて「一つ支配あるところ、一つ宗教がある ("Cuius regio, eius religio")」の原則のもと、諸侯自身選んだ信仰領内強制できる領邦教会制度成立した。ただし、帝国自由都市においてはカトリック派とルター派の両派が共存できることとした。また、大司教などの聖職者改宗した場合にはそのすべての権限失い領地放棄してカトリック教会明け渡す必要があるとした一方パッサウ条約1552年時点ルター派のもとにあったすべての財産そのままにすることとした。前者は、「聖職者に関する留保英語版)(教会留保教会維持)」の原則呼ばれるものであり、事実上カトリック司教改宗禁止意味していた。この規程は、後年三十年戦争に至る対立の原因となった

※この「諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「諸侯戦争とアウクスブルクの宗教和議」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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