諸侯会議の召集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:25 UTC 版)
「王政復古 (日本)」の記事における「諸侯会議の召集」の解説
朝廷は諸侯会議を召集して合議により新体制を定めることとし、徳川慶勝(尾張藩)、松平春嶽(越前藩)、島津久光(薩摩藩)、山内容堂(土佐藩)、伊達宗城(宇和島藩)、浅野茂勲(芸州藩)、鍋島直正(肥前藩)、池田茂政(慶喜の実弟、備前藩)ら諸藩に上洛を命じた。新体制発足までは幕府に引き続き国内統治を委任することとし、幕府はなおその間存続した。 倒幕派の岩倉具視や薩摩藩は、大政奉還によっていったん討幕の名分を失わせられた上、朝廷が従来の機構や門流支配を温存し親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王(中川宮、維新後久邇宮)に主催されたままでは自分たちの意向も反映されず、来たるべき諸侯会議も慶喜を支持する勢力が大きければ、結局新体制は慶喜を中心とするものになってしまうという懸念があった。これを阻止するため、明治天皇や自派の皇族・公家を擁して二条摂政・朝彦親王らの朝廷首脳を排除し、機構・秩序の一新された(慶喜抜きの)新体制を樹立する政変計画を練った。薩摩・長州・芸州3藩は藩論をまとめ、政変のための出兵同盟を締結する。 諸大名は諸侯会議の召命を受けても形勢傍観の構えを取る者が多く、11月中に上洛した雄藩は薩摩・芸州・尾張・越前のみで、12月8日に至ってようやく土佐の山内容堂が入京した。
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