入京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 18:07 UTC 版)
寿永2年(1183年)、義仲とともに入京、後白河院の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、従五位下・備後守に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに備前守に遷任する。さらに平家没官領のうち90か所余りを与えられている(『延慶本平家物語』)。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族らの不興を買う一方、近国育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。播磨国で平知盛・重衡軍との室山の戦いでまたしても敗北を喫し、河内国の長野城へ立て籠もったが、そこでも義仲が派遣した樋口兼光に敗れて紀伊国の名草へ逃げ込んだ。生来交渉力があり、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかったようである。
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