軍略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)
館林藩士として鎮圧のために現地に赴いた藤野金太郎(近昌)は、浪士たちについて次のように記している。 浪士共は専念鎗刀戦に重きを置て、鉄砲の利益を使用せざりしが、敗戦の大原因なりとす。若し浪人側に三拾挺の鉄砲を有し居らば、その勝敗忽ち顚倒せん、浪士の多くは鎗刀の一流に鍛錬せる人々にして、其の気概の如き大ひに嘆賞に価ひするものあり 長谷川伸も、出流山などの当時の「義兵の挙」がことごとく失敗した一因として、挙兵者たちが火器に無関心であり、白兵戦のみを計算していたことを挙げている。長谷川は、挙兵主体が国学の信奉者かつ攘夷主義者たちであったため、それに伴って近代武器に対して盲目だったと分析している。一方で鎮圧に動いた幕府軍は、渋谷和四郎率いる鉄砲隊など、火器の装備で浪士隊に優っていた。 栗原彦三郎は、出流山へ至る道路が狭隘であることを挙げ、少ない兵力で多勢の幕府軍を相手にするには適した地であったと述べ、出流山から岩船山へ移動したことは失敗だったと評している。また、安達幸太郎には1,000人を超える弟子がいたとされるにも拘らず彼らが参加の機会を得なかったのも、軍勢が早々に出流山を去ってしまったためだと考察している。
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