佐賀藩
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佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。
- ^ 『久保田町史』「二 村田家の成立」 - 『久保田町史』久保田町史編さん委員会、久保田町(市町村合併により佐賀市サイトで公開)
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年。
- ^ 龍造寺本家として扱われたが、鍋島家の養子を迎えてからは藩主親類としての扱いが強くなった。
- ^ その一方で、龍造寺一族は鍋島家をはばかって相次いで改姓し、1608年には藩内で表だって龍造寺姓を名乗るものはいなくなった。
- ^ ただし村田家は例外とされた。
- ^ 『佐賀市史』第二巻 【近世】一 佐賀藩の成立 p.15(佐賀市史編さん委員会 )
- ^ 藤野保『佐賀藩』吉川弘文館、2010年
- ^ 川副荘太田郷出身で太田資高の孫と称する資元が龍造寺家兼に仕え、のち他の竜造寺系家臣と同様に鍋島氏の家臣に組み込まれた。茂連の室は鍋島直茂の養女。
- ^ タイムスクープハンター(NHK総合1ch 11:30~0:00)2013年5月25日放送分 第7話『サムライたちの受験戦争』番組内説明
肥前藩
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藩主鍋島直正が実行する。陶磁器・石炭の専売化、均田制の採用による本百姓体制の再建を実施した。また日本初の反射炉・大砲製造所の設立による軍備の増強・近代化を実施した。
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肥前藩
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関ヶ原で西軍についた鍋島家は同じ西軍の立花宗茂を攻略した事によって家康から旧領を安堵され、35万7千石の肥前藩が誕生したが、この知行高は支藩や鍋島・龍造寺庶流四家の領地を含む表高であり、藩が有する実質的な内高は6万石程度しかなかった。さらに藩が地理的に長崎に程近いため、幕府より筑前藩と1年交代での長崎警固を命じられていたが、その負担は代々藩財政に重くのしかかった。その後、江戸期を通じて藩直轄領の拡大(1869年の時点で内高88万石)と中央集権化が行われた事や藩主・鍋島直正が藩政改革に着手した事でようやく藩財政は立ち直り、幕末の日本における産業革命を推進し、日本有数の軍事力と技術力を有するまでに至った。 肥前藩は幕末における最も近代化された藩の一つとなったが、政局に対しては姿勢を明確にすることなく、幕府、朝廷、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、大政奉還、王政復古まで静観を続けた。それでも、山本常朝の口述を著した「武士道とは死ぬことと見つけたり」で知られる『葉隠聞書』は、肥前藩の精神的支柱となり、藩内に倒幕運動の機運を漂わせるようになった。肥前藩が倒幕運動に加わったのは薩長土肥では最も遅く、戊辰戦争に肥前藩兵が派遣されてからであった。つまり、肥前藩は大政奉還が行われるまでは政治力・軍事力ともに行使していない。このことは明治政府に副島種臣、江藤新平、大隈重信らの多数の人物が登用され活躍しながら、肥前勢力が中央で薩長閥に比べて相対的に小さくなってしまった一因となっている。
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