版籍奉還の上表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 13:42 UTC 版)
明治2年1月14日、薩摩藩の大久保利通、長州藩の広沢真臣、土佐藩の板垣退助が京都円山端寮で、薩摩藩の吉井友実が持参した草稿を元に版籍奉還についての会合を行った。3藩は合意し、肥前藩を加えた薩長土肥4藩の藩主、薩摩藩の島津忠義、長州藩の毛利敬親、土佐藩の山内豊範、肥前藩の鍋島直大が連名で新政府に対して明治2年1月20日に版籍奉還の上表を提出した。上表は、国立公文書館で公開されている。 版籍奉還の上表では、王土王民思想を大義名分に掲げて諸侯が土地や人民を「安ゾ私ニ有スベケンヤ」(私有すべきではない)とする一方で、「朝廷其宜ニ処シ、其与フベキハ之ヲ与ヘ其奪フ可キハコレヲ奪ヒ」とし、土地や人民の所有の結末についてはあいまいに表現した。 その後、諸藩からの奉還上表の提出が相次いだ。1月28日までに鳥取藩、佐土原藩、越前藩、熊本藩、大垣藩などが提出し、5月3日までにはわずかの藩を除く262藩主が提出した。当時新政府にいた大隈重信は、諸藩はいったん返上した土地や人民は政府から再交付されると期待あるいは誤解していたという見解を回想録に記している 新政府は薩長土肥の上表を「忠誠の志、深叡感被思食候」とし、天皇の東京再幸後に改めて会議を開き公論を集めて決定するとした。東京再幸は明治2年3月末に行われた。
※この「版籍奉還の上表」の解説は、「版籍奉還」の解説の一部です。
「版籍奉還の上表」を含む「版籍奉還」の記事については、「版籍奉還」の概要を参照ください。
- 版籍奉還の上表のページへのリンク