版行の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 16:02 UTC 版)
北斎が旅した先は、京都大阪及び紀州が最も遠くであり、ましてや、薩摩藩の実質統治下ではあるが、対外上は「外国」の琉球王国に渡れるはずがない。では、どうやって本図を描いたのか。 『八景』を見ると、船を通すために部分的にアーチを付ける石橋などは、明清期及び徳川期の名所図の定番である西湖図を思わせ、手本があると推測されていたが、それが、清朝の版本『琉球国志略』(1757年・乾隆22年)だと判明した。後載する「図版一覧」を見れば、墨摺と錦摺の違いはあるものの、図柄は瓜二つである。 撰者の周煌(しゅうこう)は、1756年(乾隆21年)、冊封副使として来琉、約1年間滞在し、地誌や生活ぶりを記録し、『志略』にまとめたのである。この版本は、徳川幕府も有用だと思ったのか、1831年(天保2年)に「官本」として、そのままの内容で版行する。北斎が目にしたのは「官本」の方だろう。 翌32年(同3年)10月から11月にかけて、第二尚氏王統第18代尚育王の襲封謝恩使として、豊見城王子を正使として江戸上りが行われる。横山學によると、徳川期における琉球関連の版本は、重版も含め95点が確認されているが、殆どが謝恩使か、徳川将軍就任を寿ぐ江戸上がり慶賀使の時期と重なっている。その中でも、天保3年版行が23点と、最も多い。その理由として横山は、琉球及び朝鮮通信使が暫く訪れていなかったので、江戸の人々にとって、久々の「祭り」気分になったからだろうと推測する。 以上の点から、『八景』は、官本『志略』版行の翌年であり、謝恩使が江戸に着く直前の、1832年(天保3年)秋頃版行と考えるのが妥当である。
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