版籍奉還から死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:47 UTC 版)
明治2年(1869年)には大泉藩(庄内藩から改称)の大参事となり、藩内に洋学所を開設。明治4年、第2次酒田県参事。 明治6年(1873年)、藩内でワッパ騒動が起こる。多額の過納租税があったとする農民たちが、その返還を求めて蜂起した。明治8年、酒田県廃止により鶴岡県参事となる。それより3年後の明治11年、ワッパ騒動の判決が児島惟謙によって出され、禁獄235日に処せられた。一応は農民の意見が認められた形だが、当時の県令三島通庸による圧政は変わることがなかった。 その後は後田山(松ヶ岡)の開墾事業の指揮を明治44年(1911年)に引退するまで続けた。 大正3年(1914年)、死去。享年77。
※この「版籍奉還から死去」の解説は、「松平親懐」の解説の一部です。
「版籍奉還から死去」を含む「松平親懐」の記事については、「松平親懐」の概要を参照ください。
- 版籍奉還から死去のページへのリンク