版籍奉還の実施
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明治2年6月17日に版籍奉還は勅許された。同日、太政官達「公卿諸侯ノ稱ヲ廢シ改テ華族ト稱ス」が公布され、華族制度が創設された。旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に華族に列せられた。士分の藩士は藩主一門の別家を含めて士族とされた。 版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に任命されたが、例外として、御三卿で維新立藩したばかりの田安藩と一橋藩は版籍奉還するも、旧藩主は知藩事に任命されず廃藩を命じられた。一方で知藩事と陪臣であった藩士が、同じ朝廷(明治政府)の家臣(「王臣」)とされる事で朱子学に基づいた武士道(近代以後の「武士道」とは違う)によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定することになるものであり、諸藩の抵抗も予想された。そこで版籍奉還の実施に際してはその意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。もっとも、公議所では賛否の両論が伯仲したため、半数弱の公議人の署名による両論折衷の答申を出し、政権から失望されている。これに前後して戊辰戦争の恩賞である賞典禄について定めることで倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らした。 このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わった。
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