木戸孝允
木戸孝允 (きどたかよし)
木戸孝允 きど たかよし
山口生まれ。政治家。父は萩藩の藩医。吉田松陰に師事。のち江戸で剣術、西洋兵学を学ぶ。公武合体派に反対し、尊皇攘夷運動に奔走。藩の重職に就き、藩論を討幕へと導く。慶応2年(1866)鹿児島藩との間に薩長連合を締結。王政復古のクーデター後、五箇条の誓文草案を起草。参与に任ぜられ、版籍奉還の実現に尽力した。明治3年(1870)6月参議。4年(1871)岩倉遣外使節団に副使として参加。以後文部卿、内務卿、地方官会議議長、内閣顧問等を歴任。立憲制の漸進的樹立を唱えた。
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木戸孝允
木戸孝允
木戸孝允
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 13:55 UTC 版)
平賀によって改名前の名前が同じ苗字の落語家の人間に改造されてしまった。
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木戸孝允
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:41 UTC 版)
参議・内閣顧問。長州派の重鎮として、太政官内では大久保に並ぶ影響力を持つ。開明的な思考の持ち主で民権的な政策を具申するが、時期尚早として大久保にことごとく拒否され、大久保に対する憎悪が非常に強い。しかし一方で西郷側にも与せず、西郷の渡韓一件を無謀な策として批判し続けた。維新後の太政官に対する失望が強く、また同じ長州人の伊藤や山県の、大久保とのつながりが深いことに嫉妬し、深刻な精神病を病むことになり、西南戦争中失意のうちに死亡した。
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