木戸忠太郎とは? わかりやすく解説

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木戸忠太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/15 09:42 UTC 版)

木戸松子と忠太郎
忠太郎、明治28年

木戸 忠太郎(きど ちゅうたろう、1871年6月1日明治4年4月14日) - 1959年昭和34年)3月15日)は明治時代から昭和時代の人物。地質学者木戸孝允の養子。実父は松本順造。母は木戸夫人・松子の妹・信。

生涯

京都生まれ。1876年(明治9年)、木戸孝允の養子となり、生咲忠太郎から木戸忠太郎となる。1886年(明治19年)4月、養母で伯母の松子が死去。1898年(明治31年)、東京帝国大学理科大学地学科卒業、農商務省に入る。

1903年(明治36年)8月23日、小野田元熈の娘・千子と結婚。1907年(明治40年)3月、製鉄所技師兼農商務技師のまま満州鉄道に入社。地質調査部長として鞍山市・撫順鉱の磁鉄鉱を発見するなど功績を挙げた。地質研究所長となる。1909年(明治42年)春、だるまの収集を始める。

1921年(大正10年)、満鉄疑獄事件で召喚される。1923年(大正12年)、50歳で退職。

後半生は京都の自宅(旧木戸孝允邸)の別棟に「達磨堂」を建て、達磨収集の趣味に生きた。1932年(昭和7年)、著書『達磨と其諸相』を刊行。1941年(昭和16年)9月23日、郷土玩具の研究会、京都わらんべ会を結成。

1959年(昭和34年)、88歳で死去。墓所は多磨霊園[1]。達磨堂は京都市中京区の木戸孝允旧宅に隣接して現存し、公開されている。

脚注

  1. ^ 木戸忠太郎”. www6.plala.or.jp. 2024年11月27日閲覧。

参考文献

  • 企画展示 侯爵家のアルバム-孝允から幸一にいたる木戸家写真資料-国立歴史民俗博物館、2011年3月1日。

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