はこだて‐せんそう〔‐センサウ〕【箱館戦争】
箱館戦争
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箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 - 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支が戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。
注釈
- ^ 清水谷府知事への願書と品川沖脱走時に新政府へ提出した書面の写を携えていた[3]。
- ^ 使者の殺害は事実ではないという説がある[7]。
- ^ 知内から先が松前藩領。
- ^ 蟠竜は津軽藩の旗を掲げて欺いて松前港に進入し、砲撃直前に日章旗に取り換えて砲撃した[8]。
- ^ 甲鉄の乗組員であった山県小太郎の「『ガトリング砲』にあらず、小銃をもって射撃せり」という発言が『薩藩海軍史』に記載されていることなどから、甲鉄にガトリング砲は搭載されていなかったという説がある[16]。
- ^ 箱館政府の軍律では、番兵の睡眠は銃殺であった[23]
- ^ 狙撃地点は一本木のほか、鶴岡町、異国橋と諸説ある。
- ^ この大火は「脱走火事」と呼ばれる[24]。
- ^ フランス人オルトランの「海上国際法」を榎本の恩師・ハーグ大学フレデリクス教授が蘭訳した自筆本[27]。
- ^ 現在は宮内庁所蔵。
- ^ このとき黒田は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、戦後、榎本の助命に奔走することになる。
- ^ 傷病者に「乾パン」と「乾麺包(ビスケット)」を分配したが、兵糧としての乾パン・ビスケットが実戦に使用されたのは箱館戦争が最初である[28]。
- ^ 場所は亀田八幡宮旧拝殿と言われている。同地には「箱館戦争降伏式之地」記念碑がある[29]。
出典
- ^ 竹内(1983) p79
- ^ 大山(1988) p695
- ^ a b c 函館市史通説編第2巻 10月20日
- ^ 大山(1988) p698
- ^ 菊池・伊東(1998) p212
- ^ 永田(1984) p140
- ^ 菊池・伊東(1998) p213
- ^ 菊地・伊東(1998) p216
- ^ 江戸時代最後期に「対ロシアを見据えた沿岸防御」のために築城された松前城は小規模であり、かつ、築城の目的と構造上、正面(海側)に特化した構造となっており、背面(搦手)側は防御力的には未完と言っていい状態であった。
- ^ 大山(1988) p710-711
- ^ 菊池・伊東(1998) p237
- ^ 函館市史通説編第2巻 脱走軍支配下の箱館
- ^ 菊池・伊東(1998) p245-246
- ^ 須藤(2006) p78-80
- ^ 大山(1988) p727
- ^ 菊地・伊東(1998) p257
- ^ 菊地・伊東(1998) p259
- ^ 菊地・伊東(1998) p282
- ^ 菊地・伊東(1998) p283-285
- ^ 大鳥圭介述 ; 中田蕭村編輯『幕末実戦史』p.387(コマ番号203)
- ^ 菊地・伊東(1998) p286-287
- ^ 菊地・伊東(1998) p291
- ^ a b c d e f g h 相川司「新選組隊士録」新紀元社、2011,p88-89.
- ^ 函館市消防本部「函館の大火史」 2014年4月15日閲覧
- ^ 竹内(1983)p187
- ^ 好川・近江(2007)p322
- ^ 石井(1984)p320
- ^ 竹内(1983)p198
- ^ 函館市公式観光情報“はこぶら” 亀田八幡宮 2014年4月15日閲覧
- ^ 菊池・伊東(1998) p306
箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 09:50 UTC 版)
詳細は「箱館戦争」を参照 大政奉還の後、新政府により箱館府が設置されると、五稜郭は、1868年(慶応4年)閏4月に箱館奉行・杉浦誠から箱館府知事・清水谷公考に引き渡され、箱館府が引き続き政庁として使用した。同年10月21日に榎本武揚率いる旧幕府軍が鷲ノ木(現在の森町)に上陸。箱館府は迎撃したものの、各地で敗北。10月25日に清水谷知事が箱館から青森へ逃走し、10月26日に松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭を占領した。当時の五稜郭は大鳥圭介によれば「胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲を設置、濠外の堤や門外の胸壁を構築するなどの工事を行い、翌1869年(明治2年)3月に完成させた。 同年5月11日の新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭に備え付けた大砲で七重浜および箱館港方面に砲撃を行っている。しかし新政府軍に箱館市街を制圧され、翌12日以降、甲鉄が箱館港内から五稜郭に向けて艦砲射撃を行うと、奉行所に命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷。また、新政府軍は各所に陣地を築き、大砲を並べ砲撃した。猛烈な砲撃に旧幕府軍は夜も屋内で寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き、屏風を立ててかろうじて攻撃を凌ぐ有様だった。その後、5月15日に弁天台場が降伏、16日には千代ヶ岱陣屋が陥落し、新政府軍から五稜郭へ総攻撃開始が通知され、衆議を経て5月18日に榎本らが降伏、五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍に引き渡された。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/19 02:08 UTC 版)
明治元年10月21日(1868年12月4日)、箱館北方の鷲ノ木(現・森町)に上陸後、遊撃隊長・人見勝太郎とともに箱館府知事・清水谷公考に嘆願書を届ける使者となる。10月22日、峠下(現・七飯町)で宿営中に新政府軍の夜襲を受けるが、後を追ってきた伝習隊などとともに新政府軍を破る。10月23日、文月村(現・北斗市)の松前藩陣地を攻略する。 旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、第二列士満(れじまん)隊長となる。 明治2年(1869年)4月13-14日、木古内の戦いで伝習歩兵隊を率いて新政府軍を撃退する。その後、矢不来(現・北斗市)の守備に就くが4月29日の戦闘で敗北。 箱館戦争終結後、弘前藩預かりとなり最勝院に収容される。釈放後、駿府に向かう。
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箱館戦争
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同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道に来襲、箱館の五稜郭を拠点として松前に攻め込んだ。これらの動きに備えて新規に構築しつつあった館村新城(館城)に10月28日までに藩主一同および藩の主力は移動した。11月1日に榎本軍の軍艦蟠竜が松前を砲撃している。松前藩は榎本軍を奇襲するも撃退され、逆に11月5日に土方歳三を総督とした彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前に来襲し、松前城搦手門から攻めかかってきた。城代家老蛎崎民部を中心に五百名あまりが籠城した松前城は、その構造が搦手門からの攻撃をほぼ想定しておらず、さらに防衛戦力を欠いていた松前城は大砲で抵抗するも数時間のちに開城した。残存の藩兵は城下に火を放ち、江差方面へ退却した。 一方、榎本軍の別働隊500名が徳広らの逃れた先の館城攻略に来襲した。しかし藩主らは12日に西在熊石村に避難済みであり、城には60名ほどが籠っていただけであった。11月15日午前9時頃攻撃が開始され、1時間ほど激しい銃撃戦が続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となった。まな板を盾にしつつ太刀で戦い壮絶な戦死を遂げた三上超順の奮戦もあったが、城は落城した。なお、箱館戦争終結後、松前藩は館城に因んで「館藩」を名乗った。 22日、追撃する榎本軍が熊石村に到着すると、しかし徳広ら男女60余名は既に本土の弘前藩へ落ちて行った後であった。残存の藩士ら300名が榎本軍に投降した。 時を同じくして、江差に逃れた松前藩軍を攻めるために榎本軍の主力軍艦開陽が派遣されたが、江差の松前藩兵は既に退却済であった。道中で大滝陣屋を落とした額兵隊が15日に陸から江差に攻め込んだ際、江差は既に榎本海軍により占拠されていた。同夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁した。箱館から回天と神速丸の二隻が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁した。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより榎本軍は頼みの海上戦力を大きく減らすこととなり、新政府方の軍の上陸を易々と許すこととなった。 徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れたが、ここで徳広は喀血して倒れ、11月29日に死去し長勝寺に埋葬された。『弘藩明治一統誌』によれば咽を突いて自殺したとある。享年25。 明治3年(1870年)10月、長勝寺に仮葬した遺骸を菩提寺である法憧寺へ改葬された。長男の修広が幼くして跡を継いだ。 明治29年(1896年)5月20日、贈従四位。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:31 UTC 版)
ブリュネは、箱館で江戸幕府の海軍副総裁であった榎本を総裁とする、いわゆる「蝦夷共和国」(箱館政権)の創設を支援した。また陸軍奉行の大鳥圭介を補佐して箱館の防衛を軍事的に支援し、4個の列士満(レジマン、フランス語で連隊を意味する "régiment" をそのまま当て字にした)はフランス人下士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。なお、イタリア人商人、ジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)の日記によれば、ブリュネは1868年12月時点で「天皇政府は近いうちに徳川軍による蝦夷島の占領を許すに相違ない。なぜなら、その地を徳川軍に〔ママ〕争奪する十分な軍事力を有しないから」という楽観的な見通しを語っていたという。またブリュネは1869年2月6日付けで退役届けを提出しており、無給休暇と1870年5月1日までの日本滞在を申請し、これは承認された。 1869年6月、五稜郭に立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し、五稜郭は陥落、総裁・榎本らは新政府軍に投降する。ブリュネは陥落前に箱館湾で戦局を観察中だったフランス軍艦コエトロゴンに避難、他の9名とともに横浜に連行後、マキシミリアン・ウートレー公使の命令でフランス当局に逮捕され、本国へ送還された。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:43 UTC 版)
「箱館戦争」および「蝦夷共和国」も参照 蝦夷地に着いた旧幕府軍は、10月20日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(現在の森町)に上陸した。二手に分かれて箱館へ進撃、各地で新政府軍を撃破し、10月26日に五稜郭を占領、榎本は11月1日に五稜郭に入城した。その後、松前藩を攻撃するが、開陽丸を江差攻略に投入した際、座礁により喪失する。12月15日、蝦夷地平定を宣言し、士官以上の選挙により総裁となった。 この間、イギリスとフランスは状況把握と自国民保護のため軍艦を箱館に派遣、榎本は11月8日に両国の艦長および在箱館領事と会談した。イギリス公使ハリー・パークスとフランス公使マキシミリアン・ウートレー(Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「交戦団体」として認めず、日本の内戦には「中立」ではなく「不干渉」とするという訓示を出していた。しかし艦長らは口頭で英仏両国の意思を伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ、翌日、「厳正中立を遵守する、旧幕府軍については英仏国民の生命・財産・貿易保護のためにのみ限定して『事実上の政権(Authorities de facto)』として承認する」という、先の訓示とは異なる内容の覚書を手渡した。それを知ったパークスらは、この覚書を否認する文書を作成し11月30日に旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上の政権として認められたと「喧伝」した。 また、榎本は12月1日に新政府宛の嘆願書を英仏の艦長に託すが、12月14日、新政府に拒絶される。 12月18日、局外中立を宣言していたアメリカが新政府支持を表明。幕府が買い付けたものの戊辰戦争の勃発に伴い引渡未了だった装甲艦・甲鉄が、翌1869年(明治2年)1月、新政府に引き渡された。旧幕府軍は状況を打破すべく、3月25日早朝、宮古湾に停泊中の甲鉄を奇襲し、移乗攻撃(アボルダージュ)で奪取する作戦を実行するが失敗に終わる(宮古湾海戦)。 4月9日、新政府軍は蝦夷地・乙部に上陸し、旧幕府軍は5月初めには箱館周辺に追い詰められた。5月8日早朝、榎本自ら全軍を率いて大川(現在の七飯町)の新政府軍本陣を攻撃するが撃退される。新政府軍は5月11日の総攻撃で箱館市街を制圧した後、箱館病院長・高松凌雲の仲介で五稜郭の旧幕府軍に降伏勧告の使者を送るが、5月14日、榎本らは拒否。榎本は拒否の回答状とともに、オランダ留学時代から肌身離さず携えていた『海律全書』が戦火で失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀に贈った。これに対して新政府軍は海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容の書状と酒と肴を送っている。 5月15日に弁天台場が降伏し、16日に千代ヶ岱陣屋が陥落すると、同日夜、榎本は責任を取り自刃しようとするが、近習の大塚霍之丞に制止された。17日、榎本ら旧幕府軍幹部は亀田八幡宮近くの民家で黒田清隆らと会見し降伏約定を取り決め、18日朝、亀田の屯所に出頭し降伏した。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 04:08 UTC 版)
しかし、その留学生活も1年半で幕を閉じることになる。徳川慶喜による大政奉還、そして、鳥羽・伏見の戦いの勃発など、日本が混乱状態に陥ったためである。凌雲が江戸湾に到着した時には、すでに幕府は崩壊し、江戸城は薩長勢に明け渡され、主君である慶喜は水戸で謹慎中という状態であった。凌雲は自分や兄を引き立ててくれた徳川幕府・慶喜への恩義に従い、蝦夷地に幕臣の国を作ろうとした榎本武揚らに合流。箱館戦争に医師として参加する。 箱館に入ると、凌雲は箱館病院の院長に就任する。これは榎本の依頼ではあったが、「病院の運営には一切口出ししないこと」という条件を榎本につけたという。ここで凌雲は、戦傷者を敵味方を問わず治療した。当然、最初は敵方の兵士と共に治療されることに対して混乱・反発が生じたが、凌雲はパリ留学で学んだ精神を胸に、毅然とした態度でこれを制したとされる。この行動は日本で初めての赤十字の活動であった。この活動が新政府軍の黒田清隆に評価され、旧幕府軍との和平交渉を依頼されることになる。凌雲の斡旋もあり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭開城・降伏となる。 翌日には新政府側に呼び出され、官軍の「大病院」傷病兵の治療にあたった。そこには開城6日前に新政府軍の砲撃を受けて重傷を負った兄・古屋佐久左衛門も収容され、凌雲が治療にあたったが、その甲斐なく6月14日に死去した。8月には重症患者を東京に送る事になり、凌雲ら幕府方軍医も付き添った。9月半ば、患者たちが退院して軍医の役目が終わると、「賊徒の医師」として徳島藩にお預けの身となる。寒さと貧しい食事で栄養失調となる厳しい謹慎生活により、後年まで悩まされるリューマチを患った。4ヶ月後の翌明治3年2月に解放され、迎えに来た静岡藩の使者と共に藩邸に入った。兄の家族がいる静岡へ向かおうとするが、慶喜の実母・貞芳院のいる水戸家に引き留められ、慶喜の命もあり、そのまま東京で水戸家に仕える事になる。仕官の必要は無く、開業しても差し支えないという好条件であった。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 03:35 UTC 版)
明治2年3月、黒田清隆らとともに軍艦春日に乗り東京を出発、青森に向かう。途中、宮古湾海戦で旧幕府軍の攻撃を受ける。青森到着後、旧幕軍征討青森口鎮撫総督府軍監となる。 4月16日、征討軍の第三陣として江差に上陸。二股口に向かい、土方歳三率いる旧幕府軍と戦う(二股口の戦い)。新政府軍が5月11日に箱館を制圧した後、5月12日、参謀・黒田清隆の命を受け、会津遊撃隊長・諏訪常吉の見舞と称して部下の池田次郎兵衛とともに箱館病院を訪ねる。そして病院長高松凌雲を通じて、五稜郭の榎本武揚と降伏交渉を行う。 5月18日に旧幕府軍が降伏して戊辰戦争が終結した後、軍監を免ぜられ、鹿児島に帰郷。戦功により400両の恩賞を受ける。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:48 UTC 版)
詳細は「箱館戦争」を参照 榎本武揚ら旧幕府海軍を主体とする勢力は、奥羽越列藩同盟からの度重なる参戦要求を無視し、もはや列藩同盟の敗色が濃くなった8月19日になってから、ようやく江戸湾から脱出した。出航が遅れたのは、徳川慶喜への新政府の処置を見届ける必要を感じていたからと説明されている。8月26日、仙台藩内の浦戸諸島・寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し、奥羽越列藩同盟軍の残党勢力よび大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容、10月12日に蝦夷地(北海道)へと向かった。このとき、仙台藩の精鋭である洋式部隊・額兵隊も、榎本艦隊に収容された。松前藩(北海道)は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日に尊王を掲げた正議隊による政変が発生し、以後は新政府側に帰順していた。10月26日榎本は箱館五稜郭などの拠点を占領し、12月5日に北海道地域に事実上の権力を成立させた(通称、榎本政権または蝦夷共和国)。 榎本らは北方の防衛開拓を名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸を悪天候で座礁沈没させており、海軍兵力の低下は否めず、宮古湾海戦を挑んだものの敗れた。その後、新政府軍は、青森に戦力を築き、旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日(1869年5月20日)江差の北、乙部に上陸する。その後、進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。
※この「箱館戦争」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
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箱館戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/19 10:11 UTC 版)
明治元年(1868年)の旧幕府軍による箱館占領後、陣屋は若干手を加えられ、明治2年(1869年)5月11日の箱館総攻撃の後には中島三郎助率いる砲隊のほか、伝習士官隊、小彰義隊、陸軍隊、会津遊撃隊などが守備についた。 5月15日に弁天台場が降伏した後、残るは五稜郭と千代ヶ岱陣屋だけとなった。新政府軍からは降伏勧告が出され、五稜郭からも撤退命令が出されたが、中島三郎助はこれらを拒絶。小彰義隊の渋沢成一郎らは湯の川へ脱走した。 5月16日午前3時頃、新政府軍が北・西・南の三方向から千代ヶ岱陣屋に攻撃をかけた。不意を突かれた旧幕府軍は組織的な防御ができず多くが逃走し、1時間足らずで陥落、中島三郎助親子は奮闘したものの戦死した。五稜郭の旧幕府軍が降伏し戊辰戦争が終結したのは、この2日後のことである。
※この「箱館戦争」の解説は、「千代ヶ岱陣屋」の解説の一部です。
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