箱館戦争とは? わかりやすく解説

はこだて‐せんそう〔‐センサウ〕【箱館戦争】

読み方:はこだてせんそう

明治元年1868)から翌年にかけて、箱館五稜郭中心に榎本武揚旧幕臣が臨時政府つくって官軍抵抗した戦い榎本らの降伏によって終結し鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はすべて終わった五稜郭の戦い


箱館戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/07 04:31 UTC 版)

箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年〈1868年〉 - 明治2年(1869年〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、新政府軍旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の本拠地が現北海道函館市の五稜郭だったことから「五稜郭の戦い」とも呼ばれる。この戦争の最中に干支戊辰から己巳に替わったことから、己巳の役(きしのえき)と呼ばれることもある。


注釈

  1. ^ 清水谷府知事への願書と品川沖脱走時に新政府へ提出した書面の写を携えていた[3]
  2. ^ 使者の殺害は事実ではないという説がある[7]
  3. ^ 知内から先が松前藩領。
  4. ^ 蟠竜は津軽藩の旗を掲げて欺いて松前港に進入し、砲撃直前に日章旗に取り換えて砲撃した[8]
  5. ^ 甲鉄の乗組員であった山県小太郎の「『ガトリング砲』にあらず、小銃をもって射撃せり」という発言が『薩藩海軍史』に記載されていることなどから、甲鉄にガトリング砲は搭載されていなかったという説がある[16]
  6. ^ 箱館政府の軍律では、番兵の睡眠は銃殺であった[23]
  7. ^ 狙撃地点は一本木のほか、鶴岡町、異国橋と諸説ある。
  8. ^ この大火は「脱走火事」と呼ばれる[24]
  9. ^ フランス人オルトランの「海上国際法」を榎本の恩師・ハーグ大学フレデリクス教授が蘭訳した自筆本[27]
  10. ^ 現在は宮内庁所蔵。
  11. ^ このとき黒田は、榎本が国際法に精通していることに感銘し、戦後、榎本の助命に奔走することになる。
  12. ^ 傷病者に「乾パン」と「乾麺包(ビスケット)」を分配したが、兵糧としての乾パン・ビスケットが実戦に使用されたのは箱館戦争が最初である[28]
  13. ^ 場所は亀田八幡宮旧拝殿と言われている。同地には「箱館戦争降伏式之地」記念碑がある[29]

出典

  1. ^ 竹内(1983) p79
  2. ^ 大山(1988) p695
  3. ^ a b c 函館市史通説編第2巻 10月20日
  4. ^ 大山(1988) p698
  5. ^ 菊池・伊東(1998) p212
  6. ^ 永田(1984) p140
  7. ^ 菊池・伊東(1998) p213
  8. ^ 菊地・伊東(1998) p216
  9. ^ 江戸時代最後期に「対ロシアを見据えた沿岸防御」のために築城された松前城は小規模であり、かつ、築城の目的と構造上、正面(海側)に特化した構造となっており、背面(搦手)側は防御力的には未完と言っていい状態であった。
  10. ^ 大山(1988) p710-711
  11. ^ 菊池・伊東(1998) p237
  12. ^ 函館市史通説編第2巻 脱走軍支配下の箱館
  13. ^ 菊池・伊東(1998) p245-246
  14. ^ 須藤(2006) p78-80
  15. ^ 大山(1988) p727
  16. ^ 菊地・伊東(1998) p257
  17. ^ 菊地・伊東(1998) p259
  18. ^ 菊地・伊東(1998) p282
  19. ^ 菊地・伊東(1998) p283-285
  20. ^ 大鳥圭介述 ; 中田蕭村編輯『幕末実戦史』p.387(コマ番号203)
  21. ^ 菊地・伊東(1998) p286-287
  22. ^ 菊地・伊東(1998) p291
  23. ^ a b c d e f g h 相川司「新選組隊士録」新紀元社、2011,p88-89.
  24. ^ 函館市消防本部「函館の大火史」 2014年4月15日閲覧
  25. ^ 竹内(1983)p187
  26. ^ 好川・近江(2007)p322
  27. ^ 石井(1984)p320
  28. ^ 竹内(1983)p198
  29. ^ 函館市公式観光情報“はこぶら” 亀田八幡宮 2014年4月15日閲覧
  30. ^ 菊池・伊東(1998) p306


「箱館戦争」の続きの解説一覧

箱館戦争

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五稜郭」の記事における「箱館戦争」の解説

詳細は「箱館戦争」を参照 大政奉還の後、新政府により箱館府設置されると、五稜郭は、1868年慶応4年)閏4月箱館奉行杉浦誠から箱館府知事清水谷公考引き渡され箱館府引き続き政庁として使用した同年10月21日榎本武揚率い旧幕府軍が鷲ノ木現在の森町)に上陸箱館府迎撃したものの、各地敗北10月25日清水谷知事箱館から青森逃走し10月26日松岡四郎次郎隊が無人となった五稜郭占領した当時五稜郭大鳥圭介によれば胸壁上には二十四斤砲備えたれども、射的の用には供し難し」「築造未だ全備せず、有事の時は防御の用に供し難き」という状態だったが、旧幕府軍は冬の間に、堤を修復し大砲設置、濠外の堤や門外胸壁構築するなどの工事行い、翌1869年明治2年3月完成させた。 同年5月11日新政府軍による箱館総攻撃の際には、五稜郭備え付けた大砲七重浜および箱館港方面砲撃行っている。しかし新政府軍箱館市街制圧され、翌12日以降甲鉄箱館港内から五稜郭向けて艦砲射撃を行うと、奉行所命中した砲弾により古屋佐久左衛門らが死傷また、新政府軍各所陣地築き大砲並べ砲撃した猛烈な砲撃旧幕府軍は夜も屋内寝られず、また五稜郭には堡塁がなかったため、石垣や堤を盾にして畳を敷き屏風立ててかろうじて攻撃凌ぐ有様だった。その後5月15日弁天台場降伏16日には千代ヶ岱陣屋陥落し新政府軍から五稜郭総攻撃開始通知され衆議経て5月18日榎本らが降伏五稜郭では戦闘が行われることなく新政府軍引き渡された。

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箱館戦争

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本多幸七郎」の記事における「箱館戦争」の解説

明治元年10月21日1868年12月4日)、箱館北方鷲ノ木(現・森町)に上陸後遊撃隊長・人勝太郎とともに箱館府知事清水谷公考嘆願書届け使者となる。10月22日峠下(現・七飯町)で宿営中に新政府軍夜襲を受けるが、後を追ってきた伝習隊などとともに新政府軍を破る。10月23日文月(現・北斗市)の松前藩陣地攻略する旧幕府軍の蝦夷地制圧後は、第二列士満(れじまん)隊長となる。 明治2年1869年4月13-14日、木古内の戦い伝習歩兵隊率いて新政府軍撃退するその後矢不来(現・北斗市)の守備に就くが4月29日戦闘敗北。 箱館戦争終結後弘前藩預かりとなり最勝院収容される釈放後、駿府に向かう。

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松前徳広」の記事における「箱館戦争」の解説

同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道来襲箱館五稜郭拠点として松前攻め込んだ。これらの動き備えて新規に構築しつつあった館村新城館城)に10月28日までに藩主一同および藩の主力移動した11月1日榎本軍の軍艦蟠竜松前砲撃している。松前藩榎本軍を奇襲する撃退され逆に11月5日土方歳三総督とした彰義隊額兵隊衝鋒隊などからなる700名が松前来襲し、松前城搦手門から攻めかかってきた。城代家老蛎崎民部中心に五百名あまりが籠城した松前城は、その構造搦手門からの攻撃をほぼ想定しておらず、さらに防衛戦力を欠いていた松前城大砲抵抗する数時間のちに開城した。残存の藩兵は城下火を放ち江差方面退却した一方榎本軍の別働隊500名が徳広らの逃れた先の館城攻略来襲した。しかし藩主らは12日西在熊石村避難済みであり、城には60名ほどが籠っていただけであった11月15日午前9時頃攻撃開始され1時間ほど激し銃撃戦続いた後、表門の下の隙間から侵入した旧幕府兵が門を開け、兵が乱入し白兵戦となったまな板を盾にしつつ太刀戦い壮絶な戦死遂げた三上超順奮戦もあったが、城は落城した。なお、箱館戦争終結後松前藩館城因んで館藩」を名乗った22日追撃する榎本軍が熊石村到着すると、しかし徳広ら男女60余名は既に本土弘前藩落ちて行った後であった。残存藩士300名が榎本軍に投降した。 時を同じくして、江差逃れた松前藩軍を攻めるために榎本軍の主力軍艦開陽派遣されたが、江差松前藩兵は既に退却であった道中大滝陣屋落とした額兵隊15日に陸から江差攻め込んだ際、江差は既に榎本海軍により占拠されていた。同夜、天候急変し風浪押され開陽座礁した箱館から回天神速丸の二隻が開陽救出のために江差到着したが、神速丸座礁した為す術なく総員退艦した開陽数日後沈没。これにより榎本軍は頼み海上戦力大きく減らすこととなり、新政府方の軍の上陸を易々と許すこととなった。 徳広らは11月24日には弘前藩領の薬王院逃れたが、ここで徳広は喀血して倒れ11月29日死去し長勝寺埋葬された。『弘藩明治一統誌』によれば咽を突いて自殺したとある。享年25明治3年1870年10月長勝寺仮葬した遺骸菩提寺である法憧寺へ改葬された。長男の修広が幼くして跡を継いだ明治29年1896年5月20日、贈従四位

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箱館戦争

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ジュール・ブリュネ」の記事における「箱館戦争」の解説

ブリュネは、箱館江戸幕府海軍副総裁であった榎本総裁とする、いわゆる蝦夷共和国」(箱館政権)の創設支援した。また陸軍奉行大鳥圭介補佐して箱館防衛軍事的に支援し、4個の列士満(レジマン、フランス語連隊意味する "régiment" をそのまま当て字にした)はフランス人下士官(フォルタン、マルラン、カズヌーヴ、ブッフィエ)を指揮官としていた。なお、イタリア人商人、ジャーコモ・ファルファラ(Giacomo Farfara)の日記によればブリュネ1868年12月時点で「天皇政府近いうちに徳川軍による蝦夷島占領を許すに相違ない。なぜなら、その地を徳川軍に〔ママ争奪する十分な軍事力有しないから」という楽観的な見通し語っていたという。またブリュネ1869年2月6日付け退役届け提出しており、無給休暇1870年5月1日までの日本滞在申請し、これは承認された。 1869年6月五稜郭立て籠もる箱館政権軍を明治新政府軍が攻撃し五稜郭陥落総裁榎本らは新政府軍投降する。ブリュネ陥落前に箱館湾戦局観察中だったフランス軍艦コエトロゴンに避難、他の9名とともに横浜連行後、マキシミリアン・ウートレー公使命令フランス当局逮捕され本国送還された。

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箱館戦争

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榎本武揚」の記事における「箱館戦争」の解説

「箱館戦争」および「蝦夷共和国」も参照 蝦夷地着いた旧幕府軍は、10月20日箱館の北、内浦湾面する鷲ノ木現在の森町)に上陸した二手分かれて箱館進撃各地新政府軍撃破し10月26日五稜郭占領榎本11月1日五稜郭入城したその後松前藩攻撃するが、開陽丸江差攻略投入した際、座礁により喪失する12月15日蝦夷地平定宣言し士官上の選挙により総裁となったこの間イギリスフランス状況把握自国保護のため軍艦箱館派遣榎本11月8日両国艦長および在箱館領事会談したイギリス公使ハリー・パークスフランス公使マキシミリアン・ウートレー(Maxime Outrey)は、旧幕府軍を「交戦団体」として認めず日本内戦には「中立ではなく不干渉」とするという訓示出していた。しかし艦長らは口頭英仏両国意思伝えたものの、榎本らから文書にして欲しいと求められ翌日、「厳正中立遵守する旧幕府軍については英仏国民生命財産貿易保護のためにのみ限定して事実上政権Authorities de facto)』として承認する」という、先の訓示とは異な内容覚書手渡した。それを知ったパークスらは、この覚書否認する文書作成し11月30日旧幕府軍へ渡したが、榎本らは事実上政権として認められたと「喧伝」した。 また、榎本12月1日新政府宛の嘆願書英仏艦長託すが、12月14日新政府拒絶される12月18日局外中立宣言していたアメリカ新政府支持表明幕府買い付けたものの戊辰戦争勃発に伴い引渡未了だった装甲艦甲鉄が、翌1869年明治2年1月新政府引き渡された。旧幕府軍は状況打破すべく、3月25日早朝宮古湾停泊中の甲鉄奇襲し移乗攻撃アボルダージュ)で奪取する作戦実行する失敗に終わる(宮古湾海戦)。 4月9日新政府軍蝦夷地乙部上陸し旧幕府軍は5月初めに箱館周辺追い詰められた。5月8日早朝榎本自ら全軍率いて大川現在の七飯町)の新政府軍本陣攻撃する撃退される新政府軍5月11日総攻撃箱館市街制圧した後、箱館病院長高松凌雲仲介五稜郭旧幕府軍に降伏勧告使者を送るが、5月14日榎本らは拒否榎本拒否回答とともにオランダ留学時代から肌身離さず携えていた『海律全書』が戦火失われるのを避けるため新政府軍海軍参謀贈った。これに対して新政府軍海軍参謀名で感謝の意といずれ翻訳して世に出すという内容書状と酒と肴を送っている。 5月15日弁天台場降伏し16日千代ヶ岱陣屋陥落すると、同日夜、榎本責任取り自刃ようとするが、近習大塚霍之丞制止された。17日榎本旧幕府幹部亀田八幡宮近く民家黒田清隆らと会見し降伏約定取り決め18日朝、亀田屯所出頭し降伏した

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箱館戦争

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高松凌雲」の記事における「箱館戦争」の解説

しかし、その留学生活も1年半幕を閉じることになる。徳川慶喜による大政奉還、そして、鳥羽・伏見の戦い勃発など、日本混乱状態に陥ったためである。凌雲江戸湾到着した時には、すでに幕府崩壊し江戸城薩長勢に明け渡され主君である慶喜水戸謹慎中という状態であった凌雲自分や兄を引き立ててくれた徳川幕府慶喜への恩義従い蝦夷地幕臣の国を作ろうとした榎本武揚らに合流。箱館戦争に医師として参加する箱館に入ると、凌雲箱館病院院長就任する。これは榎本依頼ではあったが、「病院運営には一切口出ししないこと」という条件榎本につけたという。ここで凌雲は、戦傷者敵味方問わず治療した。当然、最初敵方兵士と共に治療されることに対して混乱反発生じたが、凌雲パリ留学学んだ精神を胸に、毅然とした態度でこれを制したとされる。この行動日本初めての赤十字の活動であった。この活動新政府軍黒田清隆評価され旧幕府軍との和平交渉依頼されることになる。凌雲斡旋もあり、明治2年1869年5月18日五稜郭開城降伏となる。 翌日には新政府側に呼び出され官軍の「大病院傷病兵治療あたった。そこには開城6日前に新政府軍砲撃受けて重傷負った兄・古屋佐久左衛門収容され凌雲治療あたったが、その甲斐なく6月14日死去した8月には重症患者東京に送る事になり、凌雲幕府方軍医付き添った9月半ば患者たち退院して軍医役目が終わると、「賊徒医師」として徳島藩お預けの身となる。寒さ貧し食事栄養失調となる厳し謹慎生活により、後年まで悩まされるリューマチ患った。4ヶ月後の翌明治3年2月解放され迎えに来た静岡藩使者と共に藩邸入った。兄の家族がいる静岡向かおうとするが、慶喜実母・貞芳院のいる水戸家引き留められ慶喜の命もあり、そのまま東京水戸家仕える事になる。仕官の必要は無く開業して差し支えないという好条件であった

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箱館戦争

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村橋久成」の記事における「箱館戦争」の解説

明治2年3月黒田清隆とともに軍艦春日乗り東京出発青森に向かう。途中宮古湾海戦旧幕府軍の攻撃を受ける。青森到着後、旧幕征討青森鎮撫総督軍監となる。 4月16日征討軍の第三陣として江差上陸二股口に向かい土方歳三率い旧幕府軍と戦う(二股口の戦い)。新政府軍5月11日箱館制圧した後、5月12日参謀黒田清隆の命を受け、会津遊撃隊長・諏訪常吉見舞称して部下池田次郎兵衛とともに箱館病院訪ねる。そして病院長高松凌雲通じて五稜郭榎本武揚降伏交渉を行う。 5月18日旧幕府軍が降伏して戊辰戦争終結した後、軍監を免ぜられ、鹿児島帰郷戦功により400両の恩賞を受ける。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 05:48 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「箱館戦争」の解説

詳細は「箱館戦争」を参照 榎本武揚旧幕府海軍主体とする勢力は、奥羽越列藩同盟からの度重なる参戦要求無視し、もはや列藩同盟敗色濃くなった8月19日になってから、ようやく江戸湾から脱出した出航遅れたのは、徳川慶喜への新政府処置見届ける必要を感じていたからと説明されている。8月26日仙台藩内の浦戸諸島寒風沢島ほか(松島湾内)に寄港し奥羽越列藩同盟軍の残党勢力よび大鳥圭介土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2,500人を収容10月12日蝦夷地北海道)へと向かった。このとき、仙台藩精鋭である洋式部隊額兵隊も、榎本艦隊収容された。松前藩北海道)は奥羽越列藩同盟側に属していたが、7月28日尊王掲げた正議隊による政変発生し以後新政府側に帰順していた。10月26日榎本箱館五稜郭などの拠点占領し12月5日北海道地域事実上権力成立させた(通称榎本政権または蝦夷共和国)。 榎本らは北方防衛開拓名目として、朝廷の下での自らの蝦夷地支配追認求め嘆願書朝廷提出したが、新政府はこれを認めず派兵した旧幕府軍は松前江差などを占領する際に軍事力の要となる開陽丸悪天候座礁沈没させており、海軍兵力低下否めず、宮古湾海戦挑んだものの敗れたその後新政府軍は、青森戦力築き旧幕府軍の不意を突いて明治2年4月9日1869年5月20日江差の北、乙部上陸するその後進軍され5月18日(同6月27日)、土方歳三戦死し榎本武揚らは新政府軍降伏し戊辰戦争終結した

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千代ヶ岱陣屋」の記事における「箱館戦争」の解説

明治元年1868年)の旧幕府軍による箱館占領後陣屋若干手を加えられ明治2年1869年5月11日箱館総攻撃の後には中島三郎助率いる砲隊のほか、伝習士官隊、小彰義隊陸軍隊、会津遊撃隊などが守備についた5月15日弁天台場降伏した後、残るは五稜郭千代ヶ岱陣屋だけとなった新政府軍からは降伏勧告出され五稜郭からも撤退命令出されたが、中島三郎助はこれらを拒絶。小彰義隊渋沢成一郎らは湯の川脱走した5月16日午前3時頃、新政府軍北・西・南の三方向から千代ヶ岱陣屋攻撃をかけた。不意を突かれ旧幕府軍は組織的な防御ができず多く逃走し1時間足らずで陥落中島三郎助親子奮闘したものの戦死した五稜郭旧幕府軍が降伏し戊辰戦争終結したのは、この2日後のことである。

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