二本松の戦い
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二本松の戦い(にほんまつのたたかい)は、戊辰戦争時、徳川旧幕府軍に参加した二本松藩の居城二本松城を巡って行われた明治新政府軍との一連の戦いの総称である。二本松城の落城に際し、動員された少年兵(幼年隊幼年兵[1])が犠牲となった。
注釈
- ^ 阿部正外は開明派の1人で、慶応元年(1865年)に日米和親条約の締結と交易の必要性を説く建白書を朝廷に奏上したため、攘夷思考の孝明天皇の不興を招き、勅令という形で白河城主を追放された。すでに幕府の権威は凋落しており、孝明天皇からの干渉は人事におよんでいた。
- ^ この時、二本松藩の兵士のみが白河城に留まっており、新政府軍と誤認した会津藩兵の砲撃を受けて2名の戦死者を出している
- ^ 5月30日の段階で朝廷に陳情書を提出して自らの立場を弁明していた
- ^ 守山藩も勤王派であり、思想的には新政府に同調していた
- ^ このうち備前藩には郡山から仙台藩が全兵力で救援に来た場合、反転して守山、三春を支援する役目を負っていた。
- ^ 20代の隊長と30代の副隊長の二名以外は15歳前後の少年たちで、最年少は12歳
- ^ 『丹羽家記』および『復古記』によれば、小川の奮戦に感じ入った薩摩藩兵らは、その武勇にあやかろうと其の肝を食した。当時としては、敬意の表し方の一つであり、異常な行動ではない。
- ^ 太田俊穂の著作は「陣地を制圧した際に民家から2名の藩士が抜刀して襲いかかり、薩摩藩兵数名を斬り伏せ、その部隊の指揮官である野津道貫も白兵戦で応じて負傷して後退し、ついに二本松藩士2名は周囲の兵士によって射殺された」というエピソードを紹介している。一方、戊辰役戦史の大山は「野津は格闘の末に、終に敵を倒した」として、その具体的な内容は明らかにしていない。しかし、野津は戦後、二人の冥福を祈る碑を立ててその武勇を嘆賞した。
出典
- ^ (二本松少年隊を参照)
- ^ 大山(1968:488)
- ^ 大山(1968:489)
- ^ 二本松藩兵は後に全軍が二本松城に帰城することになる。落城を参照
- ^ 「背後から撃ってはいない」大山(1968:472)
- ^ 「三春藩は西軍に転じ、仙台藩兵へ背後から銃撃を加えた。三春藩はこれを誤射として仙台藩に謝罪した」太田(1980:249)
- ^ 大山(1968:473)
- ^ a b 太田(1980:248)
- ^ 大山(1968:475)
- ^ 大山(1968:477)
- ^ 太田(1980:249)
- ^ 石川(1998:68-69)
- ^ a b 大山(1968:490)
- ^ 石川(1998:68)
- ^ a b c 石川(1998:70)
- ^ a b 大山(1968:492)
- ^ 26日説と27日説の二つの説がある。
- ^ (紺野庫治氏の最終調査研究結果報告、1981年(昭和56)に刊行された『絵でみる二本松少年隊』参照)
- ^ (二本松藩は幼年隊幼年兵とする)
- 1 二本松の戦いとは
- 2 二本松の戦いの概要
- 3 二本松の戦い
- 4 戦後
二本松の戦い
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詳細は「二本松の戦い」を参照 慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。
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