三春、守山の帰順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 16:55 UTC 版)
24日、新政府軍の板垣支隊は棚倉城から北上を開始する。翌25日には土浦藩領の蓬田へ到達し、三春藩まで後一日の距離に迫った。この時、既に三春藩は板垣に恭順の使者を送っていたが、一方では旧幕府軍には援軍を求めるなど戦意高揚を装って仙台藩、二本松藩からの信用を得ていた。三春藩には増援及び監視役として200名の仙台、会津藩兵が駐屯していたが、24日には仙台藩が兵力を南西の郡山に引き上げたこともあって孤立した存在だった。また、駐屯する200の兵士も新政府軍の接近に伴って三春藩の求めるままほとんどが城外の陣地に入り、残された数十名の兵士も新政府軍が接近すると北に引き上げて三春藩の離反を止める要因はなくなった。 新政府軍が三春藩に接近した26日、三春藩は藩主の秋田映季自らが城外に出迎えて新政府軍に帰順する。この帰順は旧幕府軍にとってみれば直前まで信用させた上での手のひら返しであり、「三春狐にだまされた」と三春の変節を詰る歌が現在でも残るほどの禍根を残した。一方では、元々三春藩は勤王思想が強いため新政府よりの立場にあったが、周囲の力関係から仕方なく列藩同盟に加盟した事情がある。三春藩が用いた策略は悪辣ではあるが、外交のマキャベリズムとして妥当なものであるという見解も示されている。 三春藩の帰順の翌27日、三春藩に平潟方面軍が到着し、板垣支隊はその兵力を倍以上に増強する。同日、三春藩から一日の距離にある守山藩も新政府軍に帰順して新政府軍は一気に戦線を北へと押し上げることに成功した。この時、二本松藩の主力は仙台藩と共に三春藩の南西にある郡山にあり、新政府軍と二本松藩の間には予備隊のみが存在していた。三春の即日無血開城は仙台藩、二本松藩とも想定外のことであり、旧幕府軍が集結する郡山以北に新政府軍が進出した状況となる。平潟方面軍が合流して兵力を増強した板垣支隊は、この機に三春と二本松藩の中間地点、本宮村に向けて兵を進める。二本松藩では新政府軍の接近に伴って降伏についての軍議が開かれたが、家老丹羽富穀による「死を賭して信義を守るは武士の本懐」の一言により抵抗の道を選んだ。
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