家老とは? わかりやすく解説

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か‐ろう〔‐ラウ〕【家老】


家老

読み方:カロウ(karou)

(1)宿老に同じ。
(2)武家家臣のうち最重職にして、家中総括した者。
(3)町家では、家務総括する手代


家老

読み方
家老かろう
家老けら

家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/16 07:25 UTC 版)

家老(かろう)は、武家家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治経済を補佐・運営した[1]


  1. ^ 上田萬年、松井簡治 1915, p. 964.
  2. ^ 塙保己一, pp. 136-142 (0015.jp2-0018.jp2), 「第十四冊職名部六下」.
  3. ^ 藤原長房 (雀庵) 1910, pp. 58-.
  4. ^ 塙保己一, p. 126-, 「第十三冊職名部六中」.
  5. ^ 国立国会図書館 2007, p. 129.
  6. ^ 塙保己一, pp. 136-, 「第十四冊職名部六下」.
  7. ^ JapanKnowledge. “【家宰】かさい (新選漢和辞典Web版)”. 国立国会図書館. 2021年5月21日閲覧。
  8. ^ 近世の地方制度熊本市



家老(一番大将〜三番大将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「家老(一番大将三番大将)」の解説

藩主総大将城主)を補佐する最高の役職。当藩では城代家老首席家老とは限らず江戸家老首席家老となるということも、珍しくなかった。これに対して本藩である長岡藩藩主牧野氏)では、家老の中でも、序列が低いものが、江戸家老に就任することが多く、家老首座や家老次座が江戸家老職を勤めということは、あり得なかった。長岡小諸では、ともに城持ち大名ありながら江戸家老城代家老地位対照的である。このように小諸藩の一番大将と、二番大将は、上席家老であるが、一番大将が城代家老とは、限らなかった。 在所家老(国家老)には、公事方家老と、勝手方家老の2種類が、存在したが、勝手方家老という言葉文献あらわれるのは、江戸時代後期になってからである公事方家老は、軍事警備士分間の紛争の訴務・調停、及び幕府や他藩からの公使接受行ない城代家老とも呼ばれた勝手方家老は、民政財政所轄する行政長官であった。しかし、小諸藩では、公事方と、勝手方明瞭に分けずに、2人以上の常勤在所家老が、交代輪番で職務にあたり重要事項評議するという時代もあった。この場合は、複数人置かれた在所家老の中で最も、格上席次の者が城代と呼ばれ幕府や他藩からの公使接受を行う象徴的役割などだけを独占職務としていた。城代職務内容如何に問わず城代称する役職に就任すると、城代公邸与えられた。しかし、城代公邸誰も使っていなかったときもあったようで、上級士分仮住まいとして使用図られ形跡みられる享保年間以降は小諸藩家老職は、有力諸士の交代近く、家老の家柄の者が、相当年齢となり、欠員生ずると優先的に家老職に就任していた。家老定員3名であるが、4名置かれることもあった。家老の家柄でなくとも、先代までに番頭以上にあった上級家臣家系出身者で、抜擢家老に就任した例もある。 本藩である長岡藩藩主牧野氏)のように、家老上席家柄当主であれば筋目家柄尊び幼少であっても登城年齢達していれば、家老職に就任させた事例があるが、小諸藩では家臣筆頭クラス家であっても、子供の家老職登用見当たらない藩主である牧野氏与板に、長岡支藩として分地されて立藩して以来明治維新までの期間に家老連綿家柄(家老の格式世襲として持つ家柄)との待遇1回でも得たことがあるのは、牧野氏牧野八郎左衛門家・藩主家同姓であってもその分家ではない家)、牧野氏牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家)、真木氏真木左衛門家)、稲垣氏稲垣源太左衛門家)、加藤氏加藤六郎兵衛家)、木俣氏太田氏河合氏の8家があった。 与板在封期には、倉地氏、野口氏家老職勤めていたこともあった。中でも倉地氏が与板立藩時の家臣筆頭であったが、倉地氏は、前任地与板在封期に1代限りで本藩である長岡藩帰参した(小諸家臣倉地氏は、この庶流となる)。倉地惣領家は本藩・長岡からさらに転籍して、子孫三根山藩牧野氏永代家老となった野口氏は、陰謀または権力闘争敗れて前任地改易となり、分家召し放ち解雇となるという徹底的な排斥受けた与板藩重臣のうち倉地氏は本藩に帰参野口氏改易取り潰しで2家が消滅した小諸家臣木俣氏家祖は、長岡家臣・木俣渋右衛門家(家禄100石)の弟に過ぎなかったが、兄の遺児幼く一時家督その後与板随従して、1代で与板藩家老職栄進抜擢された。仔細あっての抜擢であったようであるが、いきなり家老連綿とするには、筋目家柄不足していたものとみられる。しかし、与板藩家老職野口氏が、改易取り潰し後、家老職木俣氏与板小諸家臣となった家系2代目)が、またしても抜擢されているため、野口氏蹴落としに大きな功績があったものとみられる木俣氏木俣重郎右衛門2代目)が家老就任後まもなく、病気のため致仕比較若くして隠居となり、その後木俣氏木俣重郎右衛門3代目)当主幼少病身続き、家老とは離れた席次となり、小諸入封時も重臣ではなかった。このため重臣人材不足して長岡重鎮に連なる一族からの家老職登用見られた。 まず真木)氏が前任地与板在封期に家老連綿家柄となった。ついで小諸移封後に稲垣氏牧野八郎左衛門家の分家牧野庄兵衛正長を祖とする家<勝兵衛家>・すなわち牧野隼人成聖家系)が家老の連綿家柄となったが、中でも牧野八郎左衛門家の分家安定期としては珍しく抜擢の幅が大きなものであった。 また稲垣氏は、小諸在封期の文化元年1804年改易取り潰しになり、のちに減石格式降格の上名跡再興となったので、以後稲垣氏から家老職に就任した者がいない。再興後の稲垣氏稲垣源太左衛門家)の廃藩置県までの最高位は、家の格式は奏者格の格式をもって加判職の役職抜擢就任であった享保年間には、前述の牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家のほか、大胡長峰在封期には、藩主牧野氏家臣ではなかった太田氏家老職登用されて、家老の家柄となった同じく享保年間には、400石級上家であった牧野八郎左衛門家が、当主死亡時に男子がなく、加藤六郎兵衛家が末期養子となり、真木左衛門家は家を分けて真木九馬左衛門家と、真木右衛門家の計3家となったことで、他氏を圧する重臣存在しなくなった藩政史上最後に家老連綿の列に加えられたのは、河合氏であったが、寛政期以降になると、1代に限り家老職抜擢され退役後は、到仕(円満退職であっても先代の旧石高に復す者も、珍しくなくなっていった。 寛政期藩主牧野康周庶子で、藩主目代となった牧野康那が、若輩藩主補佐した功績により、藩主家から分家して家臣取扱となって、家老上席に就任した。しかし仔細あって家老連綿家柄はならず家老職という職名に就任したのは、家祖の1代限りであった。また維新期の小諸騒動のとき、この家系から出た牧野馬成賢は、自分たちに反対する4名の小諸家臣を、藩主虚偽報告をして斬首した件に直接関与した斬首執行後に家老相当の重臣抜擢されたが、在職期間短くその罪が責められ禁固刑となった木俣氏(重郎右衛門多門家系小諸における惣領家)が、宝暦期から化政期にかけて再浮上したが、不祥事繰り返して失脚減石処分重ね文政年間最後に家老職に、そして天保年間最後に加判職や、番頭職に、2度就任することはなかった。 このように二百数十年間の間には、重臣家系浮き沈みがあり、明治維新ときには、家老連綿家柄であったのは、牧野氏牧野八郎左衛門家)、牧野氏牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家)、真木氏真木左衛門家)、加藤氏加藤六郎兵衛家)、太田氏の5家となっていた。 また幕末維新動乱期にあった薩摩藩長州藩のような下級藩士からの重臣登用は、小諸ではなかった。もっとも幕藩体制安定期ではある鳥居氏家禄50石)は、藩主嫡子が他藩から養子入りしたとき、これに随従した寵臣であり、有能であったので、抜擢家老となった説明している刊本存在する。しかし、この刊本出典根拠としている一次史料古文書)には、こうした記述存在せず、まったく別の由緒書かれている。もっとも鳥居氏2代目は、給人から、用人加判職(重臣)に抜擢されている。 小諸藩家老職俸禄については、時代分限帳によって記載の仕方が異なる上、給人地(農地)の給付行われていたため、一義的論じることは不可能である家禄400石以上であったことが一次史料明記され家臣は3家(牧野1・真木1・加藤1)が確認できるが、いずれも享保年間までに消滅した消滅理由は、直接的にはそれぞれの家の事情と、標記変更よるものである。標記変更とは、給人地を家禄として換算して表に出さなくなったということである。 時代下り享保年間以降になると、牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家系も、班を進めて実質400家臣となり、化政期牧野兵衛成章を例にとると、最高時持高307石+給人地82.2畝69石+家老手当制度ナシ378石、そして幕末・維新期牧野隼人成聖を例にとると、最高時持高230石+江戸家老手当130石+給人地82.2畝69石=429となっていた。牧野隼人成聖持高250石とされた期間がおよそ1年あるが、この期間は在所家老であるため家老手当100石であり、実質419であった。この家系は、給人地を家禄換算しない標記になった後に立身した家系あるため家禄400石以上であったと明記した一次史料は、当然に存在しない。 ほかに稲垣氏が、家禄320石と、給人地の合計実質家禄389石となり、四捨五入により400家臣となったといえる。 家老の公式収入細かく検討すると、家老の家柄家老職に就任すると、小諸封前は、実質200石台前半小諸加増入封数年後から、享保年間初期以前は実質400石台前半小諸加増入封の翌年300石台後半)享保年間以降から小諸惣士草高成立前は、実質300石台前半から、300石台後半文化年間初期の小諸惣士草高成立時から9代藩主による改革までは、実質319石から378石、9代藩主による改革後は、実質319石から429石である。 幕末までに、重臣の家は、分家分出や、牧野康哉改革などにより、牧野康周分限帳成立したころと比較していくらか俸禄小ぶりになっていることは、否めない一部解説によると、幕末小諸騒動前半関連して、「特に加藤成美処分根深く、最も恨まれたと見え蟄居面会制限城下屋敷没収言い渡されました。当然ながらこうした 処分不服な彼等長岡藩訴えました今回小諸藩騒動懸念した長岡藩は、河井継之助派遣して調停を図ることにしました。そして結局全ての家臣処分無効にし、牧野成聖何ら加担しなかったことから逆に加増されました。この騒動最中牧野成道太田忠太真木則道が家老に就任しており、小諸藩では1万5千石の小大名ながら5人の家老が存在することになりました。さらにこれ以上争い起こらないように、次男康保岡崎藩愛知県本多家養子に出すことが決まりました。」とあるが、牧野成聖は、上記にあらわした数式あるように、減石されたとも解釈することも可能であるため、微妙である。またこの解説者が、複雑な小諸藩俸給制度知らずに刊本うわべだけを、まとめて出した結論可能性排除できない

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:45 UTC 版)

弘前藩」の記事における「家老」の解説

津軽百助家1600石・藩主一門津軽信隆藩主信義弟)-(略)=朝儀黒石領主高弟)-朝定-順朝-承祜(弘前藩主・順承に婿養子早世)、承叙(黒石4代藩主幕末弘前黒石両家藩祖為信の血統途絶えたため、この家から血統復活はかられた。 大道寺隼人家(1000 - 1500前後藩主一門大道寺直英 = 直秀(婿養子藩主義弟)=為久(婿養子。信七男)-維新後まで存続子孫県会議長 杉山家1000 - 1700前後譜代杉山源吾-吉成-吉煕-成武-成胤-成総-成務-成充-成章-成務-成範-成知

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 00:49 UTC 版)

土佐藩」の記事における「家老」の解説

深尾氏(土佐佐川1万石・藩主一門)… 維新後男爵授けられる 深尾重良=重昌(忠義の弟)-重照-重方-繁峯-茂澄-繁寛-重世-重敬-重先-重愛-重孝-隆太郎-重光重興 伊賀(山内)氏(土佐宿毛城6800石・藩主一門山内姓を称す)… 維新後男爵授けられる 山内可氏(一豊のの子)-定氏-節氏-倫氏-晴氏=郷俊-氏篤=保氏-氏睦=氏固-氏理-氏成=氏広(豊信の甥)-氏英 窪川山内氏土佐窪川5000石・山内姓を称す山内一吉林勝吉)-勝久-勝政-勝定-勝知-勝興 山内氏(土佐中村城主2万石藩主一門山内康豊(一豊の弟)- 政豊 山内氏1500石・藩主一門)… 維新後男爵授けられる 五藤氏(土佐安芸1100石・尾張時代からの重臣五藤為重正友正範-正久-正量-正全-正順-正保正身 祖父江氏(1000石・尾張時代からの重臣祖父江勘左衛門祖父江一秀(勘左衛門側室連れ子永原山内)氏(土佐本山1300石・近江長浜時代からの重臣永原一照山内刑部)-山内但馬後に改易され佐川深尾氏に預けられる)-山内姓を返上し以後長男一長家系深尾氏家臣となり、次男正行家系は乾(板垣)氏として存続する。 乾(土岐)氏(4500石・播時代からの重臣乾和宣和信和三和信の弟)-和成 以後幕末まで続き幕末土岐姓に復す福岡氏家臣)… 維新後分家子爵授けられる 福岡干孝 - 孝序 - 孝克 - 孝純 - 孝友 - 孝幹 - 孝則 - 孝安 - 孝察 - 孝茂 - 孝順 - 孝弟 - 孝 - 孝沼 野中氏(藩主一門野中直継(父の従兄弟)=兼山(一豊の妹の孫)

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 01:15 UTC 版)

久保田藩」の記事における「家老」の解説

以下、家老になりうる家を家格順に記す。ただし、廻座本家のみ記載し引渡分家割愛した

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 13:36 UTC 版)

痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」の記事における「家老」の解説

石倉三郎 第43回まで。たけしからは「三太夫」と呼ばれていた。途中から赤鼻メイクをするようになる東国原英夫之守三太夫Jr.そのまんま東第44回守備軍から家老に昇格守備軍時代第二砦などで戦ったレギュラー後期ではたけし軍団同様コント内のアトラクション実験台にされる機会増える

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家老(かろう)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 07:47 UTC 版)

なん者ひなた丸シリーズ」の記事における「家老(かろう)」の解説

何田の国の家老。ひなた丸によく忍者仕事を頼む。

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 07:08 UTC 版)

ひまわり武芸帖」の記事における「家老」の解説

裸の殿様家臣主君奇行悩みながらも忠実に仕えている。

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 10:09 UTC 版)

福井藩」の記事における「家老」の解説

本多氏附家老越前府中領2万石筆頭家老本多内蔵助家)維新後男爵 本多富正(重次の甥)-昌長-長員=長教-副紹-副充=副久-副昌-富恭=副元(常陸府中藩主・松平頼説の子、頼功の次男) 家老を輩出する藩内最高の家格高知席は17家。 本多飛騨家(本多成重五男重方が初代) 本多修理家(本多富正次男正房が初代本多敬義等。) 本多源四郎家(修理分家酒井外記家(酒井重成が初代) 酒井孫四郎山城家(孝澄が初代。北墓所福井市木田通安寺帯刀家山城貞澄の長男政貞が1600石で分家。南墓所同上芦田信濃家(初代加藤康寛依田康勝)) 松平主馬家(長沢松平家一族松平正世初代越後高田藩松平忠輝改易後松代藩主であった忠昌に仕えた。) 山形三郎兵衛家(笹治大膳家。笹治正時(笹治大膳)が初代十代のちに山県改姓山県昌景の子孫を称す最大時で1万石。) 稲葉采女家(稲葉正成の四男正房が初代) 有賀内記家(有賀正成が初代) 明石将監家(元は支藩松岡藩の家老。松岡藩本家への再合併後、本家家老家となった萩野小四郎家(荻野永道が初代) 杉田壱岐家松平忠昌譜代家臣杉田三正初代) 大谷丹下家(『華頂要略』では鳥居小路経孝の子青蓮院門跡防官大谷泰珍の養孫とされる大谷泰重の子である大谷重政初代大谷吉継の子孫を称す。) 岡部豊後家岡部長起-淡路安直淡路の弟)-貞則=起平(渥美平内の子)-主貞-貞起(南嶽)=興起孝章次男))-長(ながし) 府中領主筆頭家老本多内蔵助家は、17家の高知席のさらに上の地位にあった

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 01:07 UTC 版)

御三卿」の記事における「家老」の解説

御三卿初代家老には幕臣中から次の各2名が任じられている。 享保14年1729年)閏9月28日 - 西御丸新番頭・森川勝と先手頭伏屋為貞を田安家家老に。 享保20年1735年9月1日 - 先手頭建部広次と小納戸山本茂明を一橋家家老に。 宝暦7年1757年5月21日 - 小納戸村上義方と簾中御方御用人永井武氏清水家家老に。

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家老(大組組頭)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 21:34 UTC 版)

越後長岡藩の家臣団」の記事における「家老(大組組頭)」の解説

家老職世襲筋目とされる家と抜擢による家老があった。

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家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 00:46 UTC 版)

紀州藩」の記事における「家老」の解説

附家老 安藤家 - (紀伊田辺城主38千石)幕末紀伊田辺藩として独立維新後男爵 水野家 - (紀伊新宮城主35千石)幕末紀伊新宮藩として独立維新後男爵 三浦家 - (紀伊貴志1万5千石・藩主外戚維新後男爵 三浦為春-為時-為隆=為恭=為脩-為積-為章-為質=三七英太郎-修-孝昭 久野家 - (伊勢田城代1万石) 久野宗成-宗晴-宗俊-俊正-俊純-輝純-昌純-純固 家老連綿 水野太郎作家 - (7千石、正知の代に1万石格)安藤水野三浦久野水野太郎作家を加えて五家称する水野正重-義重=重増=忠知=知義正実=正珍-正純=正清=正知=正義 渡辺主水家 - (3千石 恭綱は松平頼純庶長子渡辺恭綱-豊綱=則綱=親綱-載綱=登綱-沿綱-為綱 村上与兵衛家 - (3千5百石)村上通清初代伊達源左衛門家 - (3千石)今川家家臣伊達景信の孫正勝初代戸田左衛門家 - (3千2百石)三河大津城戸田清光の嫡男清堅が初代加納平次右衛門家 - (4千石)加納直恒初代水野多門家 - (3千石)水野重孟初代朝比奈惣左衛門家 - (3千石)朝比奈泰能三男泰倫が初代岡野平太夫家 - (4千石)板部岡江雪斎の孫岡野英明徳川頼宣仕えたが、将軍家旗本に召出され代わりに男房明が頼宣に仕えた

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家老(戸田家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)

大垣藩」の記事における「家老(戸田家)」の解説

大高右衛門大高一度-孝親(知行2000石)=清度(孝親の弟)-重度=在度(和田義知の子)-故度-道度-集度-喬度(文武総裁軍事総裁・家老)-幸一郎 戸田治部左衛門戸田永重渋谷弥兵衛元直景明守役)=直永(戸田正直の子知行1200石)-直茂-直方知行1400石)=直美直方の弟)-直興-直澄=直之(戸田精鉄三男知行1000石)=直安(直澄の子)-直喬(知行1400石)-直養(鋭之助盛田昭夫外祖父戸田縫殿戸田氏清(戸田氏信九男)-信晴(知行2000石)方局-信辰-信周-信敏-信博=信起(戸田氏正の子戸田大夫戸田戸田氏鉄七男知行1300石)-利胤(如)-敏(知行1000石)知精鉄戸田真貞の子)-安-章-寛(三弥、知行2300石) 戸田五郎左衛門戸田氏頼(戸田氏鉄四男知行1300石)-重春-頼雄(知行1000石)-輝頼-景頼-義頼-頼及-主税五郎右衛門戸田三弥次男小原氏(大垣藩750石・重臣維新後男爵小原忠豊(100石)-忠顕(城代750石)-忠珍=忠辰(戸田右衛門義豊次男)-能右(850石)=能令(戸田右衛門義泰四男500石)-忠行-忠寛(鉄心)=忠迪

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