家老とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 労働 > 職業 > 家老 > 家老の意味・解説 

か‐ろう〔‐ラウ〕【家老】


家老

読み方:カロウ(karou)

(1)宿老に同じ。
(2)武家家臣のうち最重職にして、家中総括した者。
(3)町家では、家務総括する手代


家老

読み方
家老かろう
家老けら

家老

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/06 02:22 UTC 版)

家老(かろう)は、武家家臣団のうち最高の地位にあった役職で、複数人おり、合議によって政治経済を補佐・運営した[1]

概要

武家社会の勃興した鎌倉時代よりみられるが、室町時代までは年寄[2](としより、おとな)・宿老(しゅくろう[3] [4]執事(しつじ[5])・老中(ろうじゅう[6])・家宰(かさい[7])などと呼ばれた。通常、家臣団の中でも重臣と呼ばれる有力な家臣が任ぜられた。また、主家の譜代家臣が任ぜられるのが通常で、主家の分家などの一門の者が家老職に就くことは原則的にはなかった(これは幕府の老中も同様で親藩から老中になることはなかった)。

しかし次第にこの原則は崩れ、財政難などから、藩主の庶子は養子縁組先がないと、家老はおろか給人級の家臣として分家させられることも珍しくなくなった。分家筋で家老職をはじめとする家臣の役職に就くことは、主家の家臣の家格になったことを意味し、主家断絶時の相続権がなくなったと見なされることが通例であった。原則として大名家臣団の最高幹部が名乗る呼称であり、旗本や上級藩士が抱える家臣団の場合は筆頭格は用人と呼ばれることが多かったが、これも絶対ではなく家老と呼ばれていたり、家老と用人がともに置かれていたケースも確認されている。

江戸時代

江戸時代になると、幕府の置かれた江戸には各江戸屋敷が置かれ、ここに在勤した家老を江戸家老江戸詰家老などと呼んだ。一方、知行地に在勤した家老を国家老(くにがろう)・在所家老(ざいしょがろう)と呼んだ。主君が城主以上のときは、留守居家老や城代として城代家老(じょうだいがろう)が置かれる場合があった。主君が城主格無城のときは留守居たる在所家老は存在したが、城代家老の名称は用いなかった。城代家老の方が江戸家老より格上であることが多い。

城代家老と国家老の両方が置かれているときは、城代家老のほうが格上であるのが通例であり、城代と家老が置かれる場合は城代の方が格上とされた。複数人いた家老のうち、最も地位の高いものは筆頭家老(ひっとうがろう)・家老首座(かろうしゅざ)・一番家老(いちばんがろう)・首席家老(しゅせきがろう)・次席家老(じせきがろう)などと呼ばれた。政治・経済を中心的に差配する家老を、藩によっては仕置家老(しおきがろう)と呼んだ。城代家老と仕置家老が併置された藩にあっては、どちらが格上かは一義的に断定できない。

家老は御三家付家老御三卿付きの家老を除き、将軍陪臣であるため将軍に御目見の資格がないのが大原則である。しかし例外もあり、親藩譜代大名の家老連綿の家系の多くは幕府から将軍家の旗本の格式を与えられ、御目見の資格を持ち、関所で下馬することを免除された。徳川四天王の家老の中には、旗本の格式だけでなく幕府からも併せて家禄を受ける場合もあった。一方、外様大名の家老連綿の家系の場合、御目見の資格を与えられるのは、万石以上や特別な由緒を持つ者に限られた。世襲家老が組頭を兼帯、または組頭世襲家から家老を輩出する藩が少なからず見られる。

家老と年寄

江戸時代初期までは家老と年寄が未分化であった藩も多かったが、次第に年寄の上層部が家老として分化するようになり、年寄と呼称される役職は家老そのものではなく、家老に次ぐ役職である場合が一般化していった。年寄職と中老職または奉行職が同義として使用された藩もある。年寄、中老、奉行がある藩では、家老は家老世襲家当主が、年寄、中老、奉行はそれ以下の有能な人物が就任したことが多い。

小藩の場合は、家老に次ぐ年寄は置かれないことがほとんどであった。小藩の年寄で著名な人物に駿河国小島藩(1万石)の年寄本役の倉橋格(寿平)(戯作恋川春町として著名)がいる。

家老の異称

家老の異称として、執政参政を使うこともあった。米沢藩では国家老にあたる職を、仙台藩では家老職を全般的に「奉行」と呼称している。また、家老の補佐役である長州藩の手元役を広義的に家老と呼ぶことがある。

明治元年(1868年)10月28日に発布された藩治職制において、家老や年寄を執政・参政と呼称することが正式に定められた。さらに版籍奉還後の明治3年(1870年)9月10日に藩制[8]が布告され、執政・参政が、奏任官の大参事・権大参事・少参事・権少参事に改められた。

大藩の家老

大藩の家老には、大名並みに1万石以上の石高と数村レベルでまとまった知行地を有し、自身の知行地に陣屋を持つ者もいた。1万石以上の知行地を持つ者[9]大名分と呼んだ。

江戸時代の家老として最も高禄であった家系は、加賀100万石の本多家5万石である。上杉景勝(120万石)の家老・直江兼続(直轄6万石、寄騎領24万石、計30万石)の婿養子となった本多政重(5,000石)が、関ヶ原の合戦後に大減封を受けた上杉家を出奔して加賀藩前田氏に仕官し、本多姓に復したのが始まりである。「加賀藩の領地の一部(越中)を幕府に返還せよ」との命令を撤回させた交渉の勲功で、大加増を受けた。

小藩及び、幕府旗本の家老

1万石程度の小藩の家老は、家老連綿の家格の出身者の場合で、おおむね300石前後の蔵米取りの者が多かった。もっとも、田畑を給人地として与える割合の大きい藩では、家禄はさらに低く抑える例もあった。ここでいう給人地とは、地方知行制で云う給人地(=領地)を指すのではなく、家格に応じて支給される田畑のことである。

この制度を導入していた小藩では、家老などの上級層は家老であっても小身な者が多かったので、江戸時代後期に商品経済が浸透して物価高となると、その家臣(つまり陪臣)に農作業をさせて、中級層以下の藩士は自ら家族と共にこれに当たり、半ば農民化していた。

具体例として、恋川春町の名で戯作家として知られる小島藩(1万石)年寄本役の倉橋格の石高は、年寄本役就任で120石であり、同じく戯作家で久保田藩(20万5800石)の江戸留守居平沢常富(朋誠堂喜三二として著名)の120石とほぼ同じであった。

幕府旗本の場合は、3,000石以上の大身旗本、家禄が約400石ながら徳川将軍家の本家筋に当たる交代寄合であった松平太郎左衛門の家系など特別な場合を除き、家老は置かれないのが通例である。おおむね500石以上、3,000石未満の旗本の場合は、家臣の最高位の職名は用人であった。家老を設置した将軍家の旗本はおよそ250家(2%未満)であり、その家老は80石から、多くても100石強程度であった。

付家老

分家した家に本家より監視・監督する役割を担って配された家老を付家老と呼ぶ。付家老は、本藩(本家)と支藩(分家)の両方から家禄を受けている場合と、出仕先の支藩からのみ家禄を受けて、支藩に次第に取り込まれていった場合とがある。

将軍家から御三家に遣わされていた付家老は、幕府と藩の双方から家禄を受けていた。尾張藩成瀬氏や、紀伊藩水野氏及び安藤氏のように、城主となり官位、官職を受けていた付家老もいた。これらは、家老と言えど大名と同等の格式を与えられ、主家の参勤交代随伴時においても大名並みの格式と威光を放ったとされる。なお、水戸藩の中山家や尾張藩の成瀬家などの『五家』は大名への昇格、独立を画策して連携するようになる。

御三卿付きの家老は、御三卿が将軍家の家族という扱いであったため、江戸城留守居と並ぶ将軍家旗本の最高の役職とされたが、3,000石級以下の旗本で有能な者が任じられることも珍しくなかった。

家老格

江戸時代において諸藩では、「奉行格郡奉行」や「中老格用人」などのように、有能な人物に本職在勤のまま本職よりも格上の役職に準じる、もしくは同等な席次や格式などを許可した場合がある。

これと同様に、江戸時代において家老職は譜代重鎮の家臣による世襲、もしくは家老職を出せる家格の有力な譜代の家臣による交代制が通例であったが、譜代の家臣ではなく家老よりも格下の役職や家格の者でも、家中(かちゅう)で実力を認められて家老格家老並家老列といった、家老に準ずる地位に登用される者も登場した。

家老格からそのまま一代家老に昇進することが多いので混同されるが、厳密に言えば家老格はあくまで家老の格式を許されているだけで、家老就任者ではない。席次も通常は、家老本職者よりは低いことが多い(これは用人と用人格、物頭と物頭格などの関係でも言える)。家老格の者は藩によっては軍制上、家老組に編入される。幕府では「老中格側用人」がこれにあたる。家老格の者が一代家老にならずに隠居、もしくは死去した場合、その後継者は元来の家格に戻ることが多い。

これとは別に、一代家老を輩出した家は家老職を出せる家格(家老級の家柄)に昇格するが、世襲家老家に対して家老格と呼ぶ場合がある。この場合は先述の家老格と違い、その子孫が家老に就任しなくとも軍制上、家老組に属することが多い。加賀藩前田家のような大藩になると、家老職を出せる家格(家老級の家柄)は70家にも及んだ。ただし、基本的に家老職自体が罷免されたり病気などで辞任が許可されたりしない限り終身在職が原則のために、世襲家老とは違い、家老格の家柄が多い場合は家老職が生涯回って来ないことも多かった。ただし、この場合でも上級藩職に就任したことが多い。

一代家老

元来は家老を出せる家柄ではない家から家老に就任した者を一代家老(いちだいがろう)と呼ぶ藩が多い。学術上や近現代の著述では抜擢家老(ばってきがろう)と呼称されることもある。江戸時代も年代が経つにつれて一代家老が登用される例が増えてゆき、一代家老に対して家老連綿の家柄である門閥出身の家老を永代家老(えいだいがろう)と区別するのが一般的である。席次は永代家老の方が高い。「一代家老」の名のごとく、基本的に家老職に就けるのは本人のみで、その子息に家老職が保障されていないが、一代家老就任者の家は家老を出せる家柄に昇格することが多く、実質的に世襲している場合もあり、中には米沢藩莅戸善政莅戸政以のように、一代家老を数代輩出して永代家老家に昇格する場合もある。

有能な者が実力によって一代家老に登用された代表例として、古くは元禄期の赤穂浪士の討ち入りで有名になった赤穂藩大野知房や、寛政期の米沢藩の上杉治憲の改革のブレーンであった莅戸善政幕末に活躍した長岡藩河井継之助(郡奉行奉行格加判)、薩摩藩調所広郷長州藩村田清風などが挙げられる。

一方で、永代家老が処罰される場合は先祖の勲功が考慮されて、当主とその嫡子が処罰されても家格降格や取り潰しになることはあまりないが、一代家老が処罰される場合は当主が処罰されるに止まらず家格降格になることが多い。

家老制の弊害

2人から数人程度の家老が合議制で藩政にあたるわけであるが、政治改革や世継ぎ問題に絡んで派閥抗争が起きることが多かった。このような抗争が「お家騒動」の元凶となり、最悪の場合は改易にまで至ることがあった。

特に、藩政改革のために取り立てられて藩主の信認を背景として独裁的に改革を推進しようとする家老や年寄・奉行と、保守的な重臣、一族の意見を代表する門閥家老との対立は定番と言える光景で、藩論を二分して血で血を洗う抗争につながったり、改革派家老の失脚とともに藩主が隠居に追い込まれるなどの政争も見られた。

また、徳川家斉治世中(大御所時代)、御三家の付家老は自身らの独立のために将軍の子女を藩主や藩主正室にするように画策し、藩内対立や、将軍の子女を迎えることによる藩財政悪化を引き起こしている。また、幕府においては側用人が大老格や老中格になると、本職の大老や老中と同様の格式と加判の特権を持ちながら側用人の業務を行うので、老中に対抗できる権勢を有することになる。こういった人物として柳沢吉保田沼意次水野忠成が著名で、彼らは幕府権臣としても著名である。

家老の特権と義務

家老は、主君のための責任要員的な性格があったとの指摘もある。例えば、将軍同様に老中の通称と陪臣にあたる諸藩家臣の通称が被った場合、諸藩の家臣は通称変更を余儀なくされる場合もあった。また、家老が自分の屋敷とは別に下屋敷を有する場合もあり、基本的に防衛施設である城の近くに屋敷を構えていた。この他、通常の家臣には許可されない輿に乗る権利を許可されることも多い。

反面、主君の身代わりに藩政の実務最高責任者として責任を取ることもあった。最悪の場合は切腹斬首の上に家格降格や家名断絶を受ける形で、その責めを全うすることもあった。戊辰戦争に敗れた東北諸藩でも、家老が全責任を被って処罰を受けた代わりに藩主への処罰が軽くされるということが見られる。

徳川家における家老

徳川家ではこれに当たる役職を老中と呼んでいた。江戸幕府開府後も、幕閣最高位の役職としてこの名を踏襲した。また、臨時の役職として老中の上に大老が置かれた。ちなみに徳川氏がまだ三河国の一地方大名であった時代は、酒井家が家老(老中)連綿の家柄であった。また、石川数正が家康の信任を得てこの職に昇進した。

陪臣の叙爵

尾張家・紀伊家・水戸家の御三家、並びに加賀前田家の家老は、それぞれ決められた定数内で従五位下諸大夫へ叙爵された。

前任者が死没・隠居し、欠員が発生した後に、主家より幕府へ推挙され、叙爵した者は死没・隠居するまでその官位を保持していた。

通常の諸大夫成の場合、幕府より朝廷への年賀使として高家が上京する際に口宣頂戴奉書をまとめて持参し、その高家が口宣案をまとめて江戸へ持ち帰るが、四品以上に叙爵される場合同様、幕府の許可後、各主家で独自に使者を派遣し、叙爵の手続きをとっていた。

一覧

その他、駿河家甲府家館林家福井松平家津山松平家の陪臣叙爵があった。

勤務

基本的には病気や老齢で隠居を許可されたり、免職にならない限り、一度就任したら死ぬまで家老の職にあり続けた。

通常は月単位で当番者を決めて、当番者が決裁を行う。当番者は藩によって用番あるいは月番と呼ばれる。重要事項については定例日に評定所などに集合して合議の上で決裁する。

著名な家老

著名な老中(徳川将軍家の"家老"に相当する)格の人物

配下

家老の下に中老、その下に大奉行、大目付奉行、奉行副役、目付、横目などと続いた[10]

脚注

  1. ^ 上田萬年、松井簡治 1915, p. 964.
  2. ^ 塙保己一, pp. 136-142 (0015.jp2-0018.jp2), 「第十四冊職名部六下」.
  3. ^ 藤原長房 (雀庵) 1910, pp. 58-.
  4. ^ 塙保己一, p. 126-, 「第十三冊職名部六中」.
  5. ^ 国立国会図書館 2007, p. 129.
  6. ^ 塙保己一, pp. 136-, 「第十四冊職名部六下」.
  7. ^ JapanKnowledge. “【家宰】かさい (新選漢和辞典Web版)”. 国立国会図書館. 2021年5月21日閲覧。
  8. ^ ウィキソース s:藩制
  9. ^ 男爵#男爵家の一覧の「旧大藩の藩主一門および家老家」「叙爵されなかった旧万石以上陪臣家(注釈)」に、明治維新時点で知行1万石以上の家老が列挙されている。
  10. ^ 近世の地方制度熊本市

参考文献

本文の典拠。主な執筆者または全集の題名順。

  • 塙保己一『故実叢書 武家名目抄』今泉定介(編)、吉川弘文館、明治32年-39年、126- (コマ番号0010.jp2-)、136- (同0015.jp2-)頁。doi:10.11501/771966全国書誌番号: 40013115 1899年-1907年。
    • 「第十三冊職名部六中」に宿老、家老、家老脇の解説。
    • 「第十四冊職名部六下」に年寄、老中、大老、中老、若年寄の解説。
  • 藤原長房 (雀庵)「大名庄屋宿老名主」『さへづり草 : 一名・草籠 むしの夢の巻』室松岩雄(編)、一致堂[ほか]、明治43年-45年、58-(コマ番号0038.jp2-)頁。doi:10.11501/888910全国書誌番号: 41011276 1900年-1902年。
  • 渡辺世祐「第6章 管領及び宿老政治」『室町時代史』創元社、昭和23年、58(コマ番号0038.jp2-)、103- (コマ番号0060.jp2)頁。doi:10.11501/1041774全国書誌番号: 46004584 1948年。
    • 「§第1節 公家政治の反動」p.104-(コマ番号0061.jp2-)
    • 「§第2節 管領及び宿老」p.114-(コマ番号0066.jp2-)

関連項目


家老(一番大将〜三番大将)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「家老(一番大将三番大将)」の解説

藩主総大将城主)を補佐する最高の役職。当藩では城代家老首席家老とは限らず江戸家老首席家老となるということも、珍しくなかった。これに対して本藩である長岡藩藩主牧野氏)では、家老の中でも序列が低いものが、江戸家老就任することが多く、家老首座や家老次座が江戸家老職を勤めということは、あり得なかった。長岡小諸では、ともに城持ち大名ありながら江戸家老城代家老地位対照的である。このように小諸藩の一番大将と、二番大将は、上席家老であるが、一番大将城代家老とは、限らなかった。 在所家老(国家老)には、公事方家老と、勝手方家老の2種類が、存在したが、勝手方家老という言葉文献あらわれるのは、江戸時代後期になってからである。公事方家老は、軍事警備士分間の紛争の訴務・調停、及び幕府や他藩からの公使接受行ない城代家老とも呼ばれた勝手方家老は、民政財政所轄する行政長官であった。しかし、小諸藩では、公事方と、勝手方明瞭に分けずに、2人上の常勤在所家老が、交代輪番で、職務にあたり重要事項評議するという時代もあった。この場合は、複数人置かれ在所家老の中で最も、格上席次の者が城代呼ばれ幕府や他藩からの公使接受を行う象徴的役割などだけを独占職務としていた。城代職務内容如何に問わず城代称する役職就任すると、城代公邸与えられた。しかし、城代公邸誰も使っていなかったときもあったようで、上級士分仮住まいとして使用図られ形跡みられる享保年間以降小諸藩家老職は、有力諸士交代近く、家老の家柄の者が、相当年齢となり、欠員生ずると優先的に家老職就任していた。家老定員は3名であるが、4名置かれることもあった。家老の家柄でなくとも、先代までに番頭以上にあった上級家臣家系出身者で、抜擢家老に就任した例もある。 本藩である長岡藩藩主牧野氏)のように、家老上席家柄当主であれば筋目家柄尊び幼少であっても登城年齢達していれば、家老職就任させた事例があるが、小諸藩では家臣筆頭クラスの家であっても子供の家老職登用見当たらない藩主である牧野氏与板に、長岡支藩として分地されて立藩して以来明治維新までの期間に家老連綿家柄(家老の格式世襲として持つ家柄)との待遇1回でも得たことがあるのは、牧野氏牧野八郎左衛門家・藩主家同姓であってもその分家ではない家)、牧野氏牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家)、真木氏真木左衛門家)、稲垣氏稲垣源太左衛門家)、加藤氏加藤六郎兵衛家)、木俣氏太田氏河合氏の8家があった。 与板在封期には、倉地氏、野口氏家老職勤めていたこともあった。中でも倉地氏が与板立藩時の家臣筆頭であったが、倉地氏は、前任地の与板在封期に1代限りで本藩である長岡藩帰参した(小諸家臣の倉地氏は、この庶流となる)。倉地氏惣領家は本藩・長岡からさらに転籍して、子孫三根山藩牧野氏永代家老となった野口氏は、陰謀または権力闘争敗れて前任地で改易となり、分家召し放ち解雇となるという徹底的な排斥受けた与板藩重臣のうち倉地氏は本藩に帰参野口氏改易取り潰しで2家が消滅した小諸家臣木俣氏家祖は、長岡家臣・木俣渋右衛門家(家禄100石)の弟に過ぎなかったが、兄の遺児幼く一時家督その後与板随従して、1代で与板藩家老職栄進抜擢された。仔細があっての抜擢であったようであるが、いきなり家老連綿とするには、筋目家柄不足していたものとみられる。しかし、与板藩家老職野口氏が、改易取り潰し後、家老職木俣氏与板小諸家臣となった家系2代目)が、またしても抜擢されているため、野口氏の蹴落とし大きな功績があったものとみられる木俣氏木俣重郎右衛門2代目)が家老就任後まもなく、病気のため致仕比較若くして隠居となり、その後木俣氏木俣重郎右衛門3代目)当主幼少病身続き、家老とは離れた席次となり、小諸入封時も重臣ではなかった。このため重臣人材不足して長岡重鎮連なる一族からの家老職登用見られた。 まず真木)氏が前任地の与板在封期に家老連綿家柄となった。ついで小諸移封後に、稲垣氏牧野八郎左衛門家の分家牧野庄兵衛正長を祖とする家<勝兵衛家>・すなわち牧野隼人成聖家系)が家老の連綿家柄となったが、中でも牧野八郎左衛門家の分家安定期としては珍しく抜擢の幅が大きなものであった。 また稲垣氏は、小諸在封期の文化元年1804年改易取り潰しになり、のちに減石格式降格の上名跡再興となったので、以後稲垣氏から家老職就任した者がいない。再興後の稲垣氏稲垣源太左衛門家)の廃藩置県までの最高位は、家の格式奏者格の格式をもって加判職の役職抜擢就任であった享保年間には、前述牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家のほか、大胡長峰在封期には、藩主牧野氏家臣ではなかった太田氏家老職登用されて、家老の家柄となった同じく享保年間には、400石級上家であった牧野八郎左衛門家が、当主死亡時に男子がなく、加藤六郎兵衛家が末期養子となり、真木左衛門家は家を分けて真木九馬左衛門家と、真木右衛門家の計3家となったことで、他氏を圧する重臣存在しなくなった藩政史上最後に家老連綿の列に加えられたのは、河合氏であったが、寛政期以降になると、1代に限り家老職抜擢され退役後は、到仕(円満退職であっても先代の旧石高に復す者も、珍しくなくなっていった。 寛政期藩主牧野康周庶子で、藩主目代となった牧野康那が、若輩藩主補佐した功績により、藩主家から分家して家臣取扱となって、家老上席就任した。しかし仔細あって家老連綿家柄はならず家老職という職名就任したのは、家祖の1代限りであった。また維新期の小諸騒動のとき、この家系から出た牧野馬成賢は、自分たちに反対する4名の小諸家臣を、藩主虚偽報告をして斬首した件に直接関与した斬首執行後に家老相当の重臣抜擢されたが、在職期間は短くその罪が責められ禁固刑となった木俣氏(重郎右衛門多門家系小諸における惣領家)が、宝暦期から化政期にかけて再浮上したが、不祥事繰り返して失脚減石処分重ね文政年間最後に家老職に、そして天保年間最後に加判職や、番頭職に、2度就任することはなかった。 このように二百数十年間の期間には、重臣家系浮き沈みがあり、明治維新ときには、家老連綿家柄であったのは、牧野氏牧野八郎左衛門家)、牧野氏牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家)、真木氏真木左衛門家)、加藤氏加藤六郎兵衛家)、太田氏の5家となっていた。 また幕末維新動乱期にあった薩摩藩長州藩のような下級藩士からの重臣登用は、小諸ではなかった。もっとも幕藩体制安定期ではあるが鳥居氏家禄50石)は、藩主嫡子が他藩から養子入りしたとき、これに随従した寵臣であり、有能であったので、抜擢家老となった説明している刊本存在する。しかし、この刊本出典根拠としている一次史料古文書)には、こうした記述存在せず、まったく別の由緒書かれている。もっとも鳥居氏2代目は、給人から、用人加判職(重臣)に抜擢されている。 小諸藩家老職俸禄については、時代分限帳によって記載仕方異なる上、給人地(農地)の給付行われていたため、一義的論じることは不可能である。家禄400石以上であったことが一次史料明記され家臣は3家(牧野1・真木1・加藤1)が確認できるが、いずれも享保年間までに消滅した消滅理由は、直接的にそれぞれの家の事情と、標記変更よるものである。標記変更とは、給人地を家禄として換算して表に出さなくなったということである。 時代下り享保年間以降になると、牧野八郎左衛門家の分家である牧野兵衛家系も、班を進めて実質400家臣となり、化政期牧野兵衛成章を例にとると、最高時持高307石+給人地82.2畝69石+家老手当制度ナシ378石、そして幕末・維新期牧野隼人成聖を例にとると、最高時持高230石+江戸家老手当130石+給人地82.2畝69石=429となっていた。牧野隼人成聖持高250石とされた期間がおよそ1年あるが、この期間は在所家老であるため家老手当100石であり、実質419であった。この家系は、給人地を家禄換算しない標記になった後に、立身した家系であるため、家禄400石以上であったと明記した一次史料は、当然に存在しない。 ほかに稲垣氏が、家禄320石と、給人地の合計実質家禄389石となり、四捨五入により400家臣となったといえる。 家老の公式収入細かく検討すると、家老の家柄家老職就任すると、小諸封前は、実質200石台前半小諸加増入封数年後から、享保年間初期以前実質400石台前半小諸加増入封の翌年300石台後半)享保年間以降から、小諸惣士草高成立前は、実質300石台前半から、300石台後半文化年間初期小諸惣士草高成立時から9代藩主による改革までは、実質319石から378石、9代藩主による改革後は、実質319石から429石である。 幕末までに、重臣の家は、分家の分出や、牧野康哉改革などにより、牧野康周分限帳成立したころと比較していくらか俸禄小ぶりになっていることは、否めない一部解説によると、幕末小諸騒動前半関連して、「特に加藤成美処分根深く、最も恨まれたと見え蟄居面会制限城下屋敷没収言い渡されました。当然ながらこうした 処分不服な彼等長岡藩訴えました今回小諸藩騒動懸念した長岡藩は、河井継之助派遣して調停を図ることにしました。そして結局全ての家臣処分無効にし、牧野成聖何ら加担しなかったことから逆に加増されました。この騒動最中牧野成道太田忠太真木則道が家老に就任しており、小諸藩では1万5千石の小大名ながら5人の家老が存在することになりました。さらにこれ以上争い起こらないように、次男康保岡崎藩愛知県本多家養子に出すことが決まりました。」とあるが、牧野成聖は、上記あらわした数式あるように、減石されたとも解釈することも可能であるため、微妙である。またこの解説者が、複雑な小諸藩俸給制度知らずに、刊本のうわべだけを、まとめて出した結論可能性排除できない

※この「家老(一番大将〜三番大将)」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
「家老(一番大将〜三番大将)」を含む「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事については、「小諸藩牧野氏の家臣団」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家老」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「家老」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



家老と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家老」の関連用語

家老のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家老のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
EDRDGEDRDG
This page uses the JMnedict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの家老 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小諸藩牧野氏の家臣団 (改訂履歴)、弘前藩 (改訂履歴)、土佐藩 (改訂履歴)、久保田藩 (改訂履歴)、痛快なりゆき番組 風雲!たけし城 (改訂履歴)、なん者ひなた丸シリーズ (改訂履歴)、ひまわり武芸帖 (改訂履歴)、福井藩 (改訂履歴)、御三卿 (改訂履歴)、越後長岡藩の家臣団 (改訂履歴)、紀州藩 (改訂履歴)、大垣藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS