か‐ろう〔‐ラウ〕【家老】
家老
姓 | 読み方 |
---|---|
家老 | かろう |
家老 | けら |
家老
家老(一番大将〜三番大将)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)
「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「家老(一番大将〜三番大将)」の解説
藩主(総大将・城主)を補佐する最高の役職。当藩では城代家老が首席家老とは限らず、江戸家老が首席家老となるということも、珍しくなかった。これに対して本藩である長岡藩(藩主牧野氏)では、家老の中でも、序列が低いものが、江戸家老に就任することが多く、家老首座や家老次座が江戸家老職を勤めるということは、あり得なかった。長岡と小諸では、ともに城持ち大名でありながら、江戸家老・城代家老の地位が対照的である。このように小諸藩の一番大将と、二番大将は、上席家老であるが、一番大将が城代家老とは、限らなかった。 在所家老(国家老)には、公事方家老と、勝手方家老の2種類が、存在したが、勝手方家老という言葉が文献にあらわれるのは、江戸時代後期になってからである。公事方家老は、軍事・警備、士分間の紛争の訴務・調停、及び幕府や他藩からの公使の接受を行ない城代家老とも呼ばれた。勝手方家老は、民政と財政を所轄する行政長官であった。しかし、小諸藩では、公事方と、勝手方を明瞭に分けずに、2人以上の常勤の在所家老が、交代輪番で、職務にあたり、重要事項は評議するという時代もあった。この場合は、複数人置かれた在所家老の中で最も、格上の席次の者が城代と呼ばれ、幕府や他藩からの公使の接受を行う象徴的役割などだけを独占職務としていた。城代の職務内容の如何に問わず、城代を称する役職に就任すると、城代公邸が与えられた。しかし、城代公邸は誰も使っていなかったときもあったようで、上級士分の仮住まいとして使用を図られた形跡もみられる。 享保年間以降は小諸藩の家老職は、有力諸士の交代に近く、家老の家柄の者が、相当年齢となり、欠員が生ずると優先的に家老職に就任していた。家老定員は3名であるが、4名置かれることもあった。家老の家柄でなくとも、先代までに番頭職以上にあった上級家臣の家系出身者で、抜擢家老に就任した例もある。 本藩である長岡藩(藩主・牧野氏)のように、家老上席の家柄の当主であれば、筋目・家柄を尊び、幼少であっても登城年齢に達していれば、家老職に就任させた事例があるが、小諸藩では家臣筆頭クラスの家であっても、子供の家老職登用は見当たらない。 藩主である牧野氏が与板に、長岡の支藩として分地されて立藩して以来、明治維新までの期間に家老連綿の家柄(家老の格式を世襲として持つ家柄)との待遇を1回でも得たことがあるのは、牧野氏(牧野八郎左衛門家・藩主家と同姓であっても、その分家ではない家)、牧野氏(牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家)、真木氏(真木権左衛門家)、稲垣氏(稲垣源太左衛門家)、加藤氏(加藤六郎兵衛家)、木俣氏、太田氏、河合氏の8家があった。 与板在封期には、倉地氏、野口氏が家老職を勤めていたこともあった。中でも倉地氏が与板立藩時の家臣筆頭であったが、倉地氏は、前任地の与板在封期に1代限りで本藩である長岡藩に帰参した(小諸家臣の倉地氏は、この庶流となる)。倉地氏惣領家は本藩・長岡からさらに転籍して、子孫は三根山藩牧野氏の永代家老となった。野口氏は、陰謀または権力闘争に敗れて、前任地で改易となり、分家は召し放ち(解雇)となるという徹底的な排斥を受けた。 与板藩重臣のうち倉地氏は本藩に帰参、野口氏は改易・取り潰しで2家が消滅した。 小諸家臣木俣氏の家祖は、長岡家臣・木俣渋右衛門家(家禄100石)の弟に過ぎなかったが、兄の遺児が幼く、一時家督。その後、与板に随従して、1代で与板藩家老職に栄進、抜擢された。仔細があっての抜擢であったようであるが、いきなり家老連綿とするには、筋目・家柄が不足していたものとみられる。しかし、与板藩家老職の野口氏が、改易・取り潰し後、家老職に木俣氏(与板・小諸家臣となった家系の2代目)が、またしても抜擢されているため、野口氏の蹴落としに大きな功績があったものとみられる。木俣氏(木俣重郎右衛門家2代目)が家老就任後まもなく、病気のため致仕。比較的若くして隠居となり、その後は木俣氏(木俣重郎右衛門家3代目)当主の幼少・病身が続き、家老とは離れた席次となり、小諸入封時も重臣ではなかった。このため重臣の人材が不足して、長岡の重鎮に連なる一族からの家老職登用が見られた。 まず真木(槇)氏が前任地の与板在封期に家老連綿の家柄となった。ついで小諸移封後に、稲垣氏と牧野八郎左衛門家の分家(牧野庄兵衛正長を祖とする家<勝兵衛家>・すなわち牧野隼人進成聖の家系)が家老の連綿の家柄となったが、中でも牧野八郎左衛門家の分家は安定期としては珍しく、抜擢の幅が大きなものであった。 また稲垣氏は、小諸在封期の文化元年(1804年)改易・取り潰しになり、のちに減石・格式降格の上、名跡再興となったので、以後は稲垣氏から家老職に就任した者がいない。再興後の稲垣氏(稲垣源太左衛門家)の廃藩置県までの最高位は、家の格式は奏者格の格式をもって、加判職の役職に抜擢、就任であった。 享保年間には、前述の牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家のほか、大胡・長峰在封期には、藩主牧野氏の家臣ではなかった太田氏が家老職に登用されて、家老の家柄となった。 同じく享保年間には、400石級以上家臣であった牧野八郎左衛門家が、当主死亡時に男子がなく、加藤六郎兵衛家が末期養子となり、真木権左衛門家は家を分けて、真木九馬左衛門家と、真木水右衛門家の計3家となったことで、他氏を圧する重臣が存在しなくなった。 藩政史上、最後に家老連綿の列に加えられたのは、河合氏であったが、寛政期以降になると、1代に限り家老職に抜擢され、退役後は、到仕(円満退職)であっても、先代の旧石高に復す者も、珍しくなくなっていった。 寛政期、藩主牧野康周の庶子で、藩主目代となった牧野康那が、若輩の藩主を補佐した功績により、藩主家から分家して家臣取扱となって、家老上席に就任した。しかし仔細あって家老連綿の家柄にはならず、家老職という職名に就任したのは、家祖の1代限りであった。また維新期の小諸騒動のとき、この家系から出た牧野求馬成賢は、自分たちに反対する4名の小諸家臣を、藩主に虚偽の報告をして斬首した件に直接関与した。斬首執行後に家老相当の重臣に抜擢されたが、在職期間は短くその罪が責められて禁固刑となった。 木俣氏(重郎右衛門・多門家系・小諸における惣領家)が、宝暦期から化政期にかけて再浮上したが、不祥事を繰り返して失脚。減石処分を重ね文政年間を最後に家老職に、そして天保年間を最後に加判職や、番頭職に、2度と就任することはなかった。 このように二百数十年間の期間には、重臣家系の浮き沈みがあり、明治維新のときには、家老連綿の家柄であったのは、牧野氏(牧野八郎左衛門家)、牧野氏(牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家)、真木氏( 真木権左衛門家)、加藤氏(加藤六郎兵衛家)、太田氏の5家となっていた。 また幕末・維新の動乱期にあった薩摩藩・長州藩のような下級藩士からの重臣の登用は、小諸ではなかった。もっとも幕藩体制の安定期ではあるが鳥居氏(家禄50石)は、藩主嫡子が他藩から養子入りしたとき、これに随従した寵臣であり、有能であったので、抜擢家老となった説明している刊本が存在する。しかし、この刊本が出典・根拠としている一次史料(古文書)には、こうした記述は存在せず、まったく別の由緒が書かれている。もっとも鳥居氏の2代目は、給人から、用人・加判職(重臣)に抜擢されている。 小諸藩の家老職の俸禄については、時代と分限帳によって記載の仕方が異なる上、給人地(農地)の給付も行われていたため、一義的に論じることは不可能である。家禄が400石以上であったことが一次史料に明記された家臣は3家(牧野1・真木1・加藤1)が確認できるが、いずれも享保年間までに消滅した。消滅の理由は、直接的にはそれぞれの家の事情と、標記の変更によるものである。標記の変更とは、給人地を家禄として換算して表に出さなくなったということである。 時代は下り、享保年間以降になると、牧野八郎左衛門家の分家である牧野勝兵衛家系も、班を進めて、実質400級家臣となり、化政期の牧野勝兵衛成章を例にとると、最高時に持高307石+給人地82.2畝69石+家老手当制度ナシ=378石、そして幕末・維新期の牧野隼人進成聖を例にとると、最高時、持高230石+江戸家老手当130石+給人地82.2畝69石=429石となっていた。牧野隼人進成聖が持高を250石とされた期間がおよそ1年あるが、この期間は在所家老であるため家老手当は100石であり、実質419石であった。この家系は、給人地を家禄に換算しない標記になった後に、立身した家系であるため、家禄400石以上であったと明記した一次史料は、当然に存在しない。 ほかに稲垣氏が、家禄320石と、給人地の合計で実質家禄389石となり、四捨五入により400級家臣となったといえる。 家老の公式収入を細かく検討すると、家老の家柄で家老職に就任すると、小諸入封前は、実質200石台前半、小諸に加増入封数年後から、享保年間初期以前は実質400石台前半(小諸に加増入封の翌年は300石台後半)、享保年間以降から、小諸惣士草高割成立前は、実質300石台前半から、300石台後半、文化年間初期の小諸惣士草高割成立時から9代藩主による改革までは、実質319石から378石、9代藩主による改革後は、実質319石から429石である。 幕末までに、重臣の家は、分家の分出や、牧野康哉の改革などにより、牧野康周分限帳の成立したころと比較して、いくらか俸禄が小ぶりになっていることは、否めない。 一部の解説によると、幕末の小諸騒動前半に関連して、「特に加藤成美の処分は根深く、最も恨まれたと見え、蟄居と面会制限、城下屋敷の没収が言い渡されました。当然ながらこうした 処分に不服な彼等は長岡藩へ訴えました。今回の小諸藩の騒動を懸念した長岡藩は、河井継之助を派遣して調停を図ることにしました。そして結局全ての家臣の処分を無効にし、牧野成聖は何ら加担しなかったことから逆に加増されました。この騒動の最中に牧野成道、太田宇忠太、真木則道が家老に就任しており、小諸藩では1万5千石の小大名ながら5人の家老が存在することになりました。さらにこれ以上争いが起こらないように、次男の康保を岡崎藩(愛知県)本多家へ養子に出すことが決まりました。」とあるが、牧野成聖は、上記にあらわした数式にあるように、減石されたとも解釈することも可能であるため、微妙である。またこの解説者が、複雑な小諸藩の俸給制度を知らずに、刊本のうわべだけを、まとめて出した結論の可能性も排除できない。
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家老
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津軽百助家(1600石・藩主一門)津軽信隆(藩主信義弟)-(略)=朝儀(黒石領主著高弟)-朝定-順朝-承祜(弘前藩主・順承に婿養子。早世)、承叙(黒石4代藩主) 幕末、弘前・黒石両家で藩祖為信の血統が途絶えたため、この家から血統の復活がはかられた。 大道寺隼人家(1000 - 1500石前後・藩主一門)大道寺直英 = 直秀(婿養子。藩主信枚義弟)=為久(婿養子。信枚七男)-維新後まで存続、子孫は県会議長 杉山家(1000 - 1700石前後・譜代)杉山源吾-吉成-吉煕-成武-成胤-成総-成務-成充-成章-成務-成範-成知
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家老
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深尾氏(土佐佐川領1万石・藩主一門)… 維新後、男爵を授けられる 深尾重良=重昌(忠義の弟)-重照-重方-繁峯-茂澄-繁寛-重世-重敬-重先-重愛-重孝-隆太郎-重光-重興 伊賀(山内)氏(土佐宿毛城領6800石・藩主一門・山内姓を称す)… 維新後、男爵を授けられる 山内可氏(一豊の姉の子)-定氏-節氏-倫氏-晴氏=郷俊-氏篤=保氏-氏睦=氏固-氏理-氏成=氏広(豊信の甥)-氏英 窪川山内氏(土佐窪川領5000石・山内姓を称す) 山内一吉(林勝吉)-勝久-勝政-勝定-勝知-勝興 山内氏(土佐中村城主2万石・藩主一門) 山内康豊(一豊の弟)- 政豊 山内氏(1500石・藩主一門)… 維新後、男爵を授けられる 五藤氏(土佐安芸領1100石・尾張時代からの重臣) 五藤為重-正友-正範-正久-正量-正全-正順-正保-正身 祖父江氏(1000石・尾張時代からの重臣) 祖父江勘左衛門=祖父江一秀(勘左衛門の側室の連れ子) 永原(山内)氏(土佐本山領1300石・近江長浜時代からの重臣) 永原一照(山内刑部)-山内但馬(後に改易され佐川深尾氏に預けられる)-山内姓を返上し、以後長男一長の家系は深尾氏家臣となり、次男正行の家系は乾(板垣)氏として存続する。 乾(土岐)氏(4500石・播磨時代からの重臣) 乾和宣-和信=和三(和信の弟)-和成 以後幕末まで続き、幕末に土岐姓に復す。 福岡氏(家臣)… 維新後、分家が子爵を授けられる 福岡干孝 - 孝序 - 孝克 - 孝純 - 孝友 - 孝幹 - 孝則 - 孝安 - 孝察 - 孝茂 - 孝順 - 孝弟 - 孝猪 - 孝沼 野中氏(藩主一門) 野中直継(父の従兄弟)=兼山(一豊の妹の孫)
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家老
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以下、家老になりうる家を家格順に記す。ただし、廻座は本家のみ記載し、引渡分家を割愛した。
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家老
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「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」の記事における「家老」の解説
石倉三郎 第43回まで。たけしからは「三太夫」と呼ばれていた。途中から赤鼻のメイクをするようになる。 東国原英夫之守三太夫Jr.(そのまんま東) 第44回で守備軍から家老に昇格。守備軍時代は第二砦などで戦った。レギュラー後期ではたけし軍団同様コント内のアトラクションで実験台にされる機会が増える。
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家老(かろう)
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「なん者ひなた丸シリーズ」の記事における「家老(かろう)」の解説
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家老
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家老
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本多氏(附家老。越前府中領2万石・筆頭家老本多内蔵助家)維新後男爵 本多富正(重次の甥)-昌長-長員=長教-副紹-副充=副久-副昌-富恭=副元(常陸府中藩主・松平頼説の子、頼功の次男) 家老を輩出する藩内最高の家格の高知席は17家。 本多飛騨家(本多成重の五男重方が初代) 本多修理家(本多富正の次男正房が初代。本多敬義等。) 本多源四郎家(修理家分家) 酒井外記家(酒井重成が初代) 酒井孫四郎家 狛山城家(狛孝澄が初代。北狛。墓所は福井市木田の通安寺) 狛帯刀家(山城家狛貞澄の長男狛政貞が1600石で分家。南狛。墓所同上) 芦田信濃家(初代は加藤康寛(依田康勝)) 松平主馬家(長沢松平家の一族松平正世が初代。越後高田藩主松平忠輝の改易後に松代藩主であった忠昌に仕えた。) 山形三郎兵衛家(笹治大膳家。笹治正時(笹治大膳)が初代。十代のちに山県に改姓、山県昌景の子孫を称す。最大時で1万石。) 稲葉采女家(稲葉正成の四男正房が初代) 有賀内記家(有賀正成が初代) 明石将監家(元は支藩の松岡藩の家老。松岡藩の本家への再合併後、本家の家老家となった) 萩野小四郎家(荻野永道が初代) 杉田壱岐家(松平忠昌譜代家臣の杉田三正が初代) 大谷丹下家(『華頂要略』では鳥居小路経孝の子で青蓮院門跡防官大谷泰珍の養孫とされる大谷泰重の子である大谷重政が初代。大谷吉継の子孫を称す。) 岡部豊後家(岡部長起-淡路=安直(淡路の弟)-貞則=起平(渥美平内の子)-主貞-貞起(南嶽)=興起(狛孝章次男))-長(ながし) 府中領主の筆頭家老本多内蔵助家は、17家の高知席のさらに上の地位にあった。
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家老
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御三卿の初代家老には幕臣の中から次の各2名が任じられている。 享保14年(1729年)閏9月28日 - 西御丸新番頭・森川俊勝と先手頭・伏屋為貞を田安家家老に。 享保20年(1735年)9月1日 - 先手頭・建部広次と小納戸・山本茂明を一橋家家老に。 宝暦7年(1757年)5月21日 - 小納戸・村上義方と簾中御方御用人・永井武氏を清水家家老に。
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家老(大組組頭)
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「越後長岡藩の家臣団」の記事における「家老(大組組頭)」の解説
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家老
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附家老 安藤家 - (紀伊田辺城主3万8千石)幕末に紀伊田辺藩として独立、維新後男爵 水野家 - (紀伊新宮城主3万5千石)幕末に紀伊新宮藩として独立、維新後男爵 三浦家 - (紀伊貴志領1万5千石・藩主外戚)維新後男爵 三浦為春-為時-為隆=為恭=為脩-為積-為章-為質=三七-英太郎-修-孝昭 久野家 - (伊勢田丸城代1万石) 久野宗成-宗晴-宗俊-俊正-俊純-輝純-昌純-純固 家老連綿 水野太郎作家 - (7千石、正知の代に1万石格)安藤、水野、三浦、久野に水野太郎作家を加えて五家と称する。 水野正重-義重=重増=忠知=知義-正実=正珍-正純=正清=正知=正義 渡辺主水家 - (3千石 恭綱は松平頼純の庶長子) 渡辺恭綱-豊綱=則綱=親綱-載綱=登綱-沿綱-為綱 村上与兵衛家 - (3千5百石)村上通清が初代。 伊達源左衛門家 - (3千石)今川家家臣伊達景信の孫正勝が初代。 戸田金左衛門家 - (3千2百石)三河大津城主戸田清光の嫡男清堅が初代。 加納平次右衛門家 - (4千石)加納直恒が初代。 水野多門家 - (3千石)水野重孟が初代。 朝比奈惣左衛門家 - (3千石)朝比奈泰能の三男泰倫が初代。 岡野平太夫家 - (4千石)板部岡江雪斎の孫岡野英明は徳川頼宣に仕えたが、将軍家の旗本に召出され、代わりに四男房明が頼宣に仕えた。
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家老(戸田家)
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大高金右衛門家大高一度-孝親(知行2000石)=清度(孝親の弟)-重度=在度(和田義知の子)-故度-道度-集度-喬度(文武館総裁・軍事総裁・家老)-幸一郎 戸田治部左衛門家戸田永重(渋谷弥兵衛、元直江景明守役)=直永(戸田正直の子知行1200石)-直茂-直方(知行1400石)=直美(直方の弟)-直興-直澄=直之(戸田精鉄三男、知行1000石)=直安(直澄の子)-直喬(知行1400石)-直養(鋭之助、盛田昭夫の外祖父) 戸田縫殿家戸田氏清(戸田氏信九男)-信晴(知行2000石)方局-信辰-信周-信敏-信博=信起(戸田氏正の子) 戸田権大夫家戸田利鉄(戸田氏鉄七男知行1300石)-利胤(如水)-鉄敏(知行1000石)知鉄=精鉄(戸田真貞の子)-安鉄-章鉄-寛鉄(三弥、知行2300石) 戸田五郎左衛門家戸田氏頼(戸田氏鉄四男知行1300石)-重春-頼雄(知行1000石)-輝頼-景頼-義頼-頼及-主税=五郎右衛門(戸田三弥次男) 小原氏(大垣藩内750石・重臣)維新後、男爵。小原忠豊(100石)-忠顕(城代750石)-忠珍=忠辰(戸田儀右衛門義豊次男)-能右(850石)=能令(戸田儀右衛門義泰四男500石)-忠行-忠寛(鉄心)=忠迪
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「家老」の例文・使い方・用例・文例
- あの家は代々家老を勤めた
- 城代家老
- 江戸家老という役職
- 江戸家老という,役職の人
- 江戸時代において,奥家老という,大名の奥向きの事務を司る役職
- 江戸時代において,奥家老という,大名の奥向きの事務を司る役職の人
- 表家老という昔の日本の武家における職務
- 江戸時代,藩主が江戸にいる間,領国の政務をあずかる家老
- 大名の家老
- 大名の領国にいて,主君の留守を預かる家老
- 江戸時代の家老という役職の人
- 江戸時代の付け家老という役職
- 付け家老という役職の人
- 江戸時代の付け家老という職務
- 江戸時代の付け家老という職務の人
- 幕府の老中,大名家の家老など武家の重臣
家老と同じ種類の言葉
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