長岡藩
長岡藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:15 UTC 版)
幕末の長岡藩は、家老河井継之助の指揮の元に軍制改革に成功した。藩兵にフランス式の軍事訓練を行った。 慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まると、長岡兵60名は、旧幕府軍に属し大坂城付近の玉津橋を守ったが、旧幕府軍の敗北に伴い、藩兵は長岡藩領に帰国した。 河井は単身で江戸に行き、新政府に対抗するための軍事力を持つために、大量の武器を購入して、新政府にも旧幕府にも属さず、モンロー主義の影響を受けた獨立特行を主張した。 新政府軍の北陸道先鋒総督府より、兵士と軍資金を供出するように、命じられた時に、河井はこれを黙殺した。このような長岡藩の態度を問題視した新政府は、4月12日江戸城に入場すると、北越方面の平定に乗り出した。 そして、高倉永祜を北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に任命して、黒田清隆と山県有朋が参謀に任命された。北陸道軍は越後高田に集結して、4月21日に山道軍と海道軍の二手に分かれて長岡に進撃を始める。その時、長岡藩は河井継之助を軍事総督に任命した。最初は河井は中立を目指し戦いに消極的だったが、奥羽列藩同盟が結成された後、5月初旬に村上藩、黒川藩、新発田藩、三根山藩、村松藩ら越後の藩と共に長岡藩も参加し、奥羽越列藩同盟が結成された。
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