奥羽越列藩同盟とは? わかりやすく解説

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おううえつ‐れっぱんどうめい〔アウウヱツ‐〕【奥羽越列藩同盟】

読み方:おううえつれっぱんどうめい

慶応4年1868)の戊辰戦争時に東北北越諸藩結んだ維新政府軍事同盟


奥羽越列藩同盟

読み方:オウウエツレッパンドウメイ(ouuetsureppandoumei)

戊辰戦争際し東北北陸諸藩結んだ反藩長同盟


奥羽越列藩同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 06:04 UTC 版)

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王[1] を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権[2]




「奥羽越列藩同盟」の続きの解説一覧

奥羽越列藩同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 08:57 UTC 版)

楢山佐渡」の記事における「奥羽越列藩同盟」の解説

慶応4年1868年)、京都御所警備のために鳥羽・伏見の戦い終わった直後京都赴任する京都滞在中、西郷隆盛岩倉具視桂小五郎新政府側の人々接触する西郷隆盛訪ねたとき、西郷部屋の中で数名薩摩藩士とあぐらをかき牛肉の鍋を囲んで談論風発していた。楢山佐渡が彼とどのような会話をしたかは定かでないが、佐渡憮然として「全く呆れはてたものだ。武士の作法地に落ちた。しかし考えてみると、あの輩はもともと格式のある武士ではないのだからやむを得ぬかもしれぬが、あれで天下政治をとれるものであろうか」と同行者洩らしたという。 また薩長人間祇園島原花街我が物顔横行し、人もなげなふるまい多かったことも佐渡憤慨嘆息させた。「酔うては眠る美人の膝、醒めては握る天下」などと途方もないことを彼らが抜かして大得意であったこと、口では非の打ちどころがない勤王論を唱えておきながら、やっていることは手もつけられ不行状を見るにつけ、佐渡は口と腹とは違いもせぬか、運よく天下をとったところでまた幕末失態再演するようなことはあるまいか、という印象受けたという。また、岩倉具視秘密裏面会し、「朝廷薩長による新政府支配を必ずしも是としていない。むしろ、これは将来禍根となるとさえ思っている。しかし、朝廷武力持たない。いまここで彼らと戦えるのは奥羽諸藩しかない奥羽結束して彼らと一戦を交えるならば、日和見態度とってい各藩もこれと呼応してたたかうようになるであろう」というような岩倉の言を信じ佐渡新政府対抗する意志固めたという。 これに異を唱えたのが、御用人目時隆之進と目付役中嶋源蔵だった。彼らは何度佐渡膝を交えて討論をしたが、ついにその意見入れられないと悟ると、目時長州藩邸へ走ったその四日後、中嶋は腹をかっ切り臓腑を壁に投げつけて「佐渡呼べ黒白決したい」と隣室四戸訴えた佐渡がただちに中嶋のもとにかけよると、中嶋は「皇国忠誠尽くしてほしい、私のいうことをきいてくれなければ死んでも死にきれない」と途切れ途切れに訴えた佐渡は涙を流し、「王事尽く気持ちは私も同じだ安らかに眠ってくれ」と言うと中嶋無言頷き事切れた。 反薩長佐渡決心は変わらなかったが、中嶋の死を心からいたんだ。「中嶋君は立派な武士である。私とは意見異にしたが、国を思う心は全く決して私に劣るものではない。私は彼を永遠の友としたい」と手厚く葬った目時のことは一度も口に出さなかったが、佐渡東京幽囚の際や処刑前、何度も中嶋のことを思った。「私が至らぬばかりにあのような死に方をさせて」と目頭押さえていた。報恩寺処刑を待つ佐渡病気生死の境さまよい、なんとか峠を越した時も「このまま死んだ中嶋源蔵申し訳が立たなかった」と語ったという。 佐渡6月海路帰国の途につき仙台上陸する大部分随行者は、そのまま盛岡直行させ自らは仙台藩家老但木土佐会見した。「奥羽同盟一角すでに崩れたが、我々は一蓮托生…」と互い決意確かめ合って帰途についた伝えられている。元々盛岡藩仙台藩仲が良いわけではなく、この行為佐渡三閉伊一揆での「借り」を返す行為だと見なす者もいる。 盛岡藩内部でも勤王思想が強い者が多かった。藩の大評定遠野南部家強硬に新政府側につくことを主張したまた、八戸南部家勤王思想強く密かに久保田藩通じており、両藩とも戦闘参加していない。また、謹慎中の東政図奥羽列藩同盟に最も強く反対をした。 佐渡帰国後、これら藩内の反対派押さえ藩論奥羽列藩同盟への参加継続一致させた。 奥羽列藩同盟から離脱し新政府についた久保田藩攻めた秋田戦争では、佐渡勇ましく盛岡藩兵の総指揮をとった。大館城落城させ、久保田城目指し佐渡だが、要衝きみまち阪最新アームストロング砲武装し西洋式訓練受けた佐賀藩兵らの到着により、状況一変する。藩境まで押し返され、そこで膠着状態になるが、次々奥羽列藩同盟同盟藩が離脱する状況に、ついに盛岡藩降伏選択した撤退の際に南部兵は、久保田藩各地集落焼き討ちにしている。このため、これらの地区では盛岡藩佐渡対す恨み明治後期まで残っていたと言われる戦後敗戦の責を負い明治2年1869年6月23日盛岡報恩寺において刎首された。介錯は、佐渡教え受けた戸田一心流」皆伝者・江釣子源吉執行したという。享年39辞世は「花は咲く はもゆる 春の夜うつらぬものは 武士もののふ)の道」。 奥羽越列藩同盟を組んだ各藩は責を問われ藩主代わり仙台藩家老但木土佐会津藩家老萱野長修同様に刎首された。

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奥羽越列藩同盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:28 UTC 版)

松平容保」の記事における「奥羽越列藩同盟」の解説

5月東北諸藩34からなる奥羽越列藩同盟が成る。 7月13日磐城平城26日三春藩29日二本松城29日長岡城落城する。

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