奥羽鎮撫使先導役に任命される
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「吉田守隆」の記事における「奥羽鎮撫使先導役に任命される」の解説
慶応4年(1868年)、朝廷は鳥羽・伏見の戦いの首謀格とされた会津藩の追討を仙台藩など東北諸藩に命じ、奥羽鎮撫総督九条道孝・副総督澤為量らを東下させた。これに先立ち、天童藩は織田宗家という家格を評価されて鎮撫使の先導を任じられた。しかし、藩主信学は病弱、世子の富久之助(信敏)は若年であったため、同年3月24日、名代として吉田守隆が先導役に任命された。 先導役となった守隆は、薩摩藩・長州藩・仙台藩らの連合軍を率いて庄内藩と交戦。この結果、陣屋は庄内藩兵の攻撃を受けて炎上した。 詳細は「天童の戦い」を参照 一方、鎮撫軍内部では、戦闘を避けて穏便に和解を図ろうとする東北諸藩と、会津藩を討伐しようとする鎮撫総督との間で亀裂が生じていた。この亀裂は、会津藩や東北諸藩に対し厳しい態度をとった鎮撫軍参謀世良修蔵の暗殺、奥羽越列藩同盟の結成につながった結果、奥州は反鎮撫軍一色となった。天童藩も先導役を辞退し、列藩同盟に加盟せざるを得なかった。 守隆は責任を取り、漆山村(現山形市漆山)に蟄居した。親交のあった桂太郎が蟄居中の守隆に逃亡を勧めたが、守隆は「藩主に迷惑がかかる」と断ったと伝わる。 その後、列藩同盟からの圧力に対し、天童藩は守隆に死を賜ることにした。守隆は6月18日、天童妙法寺の観月庵で絶命辞を残し切腹した。
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