世良修蔵とは? わかりやすく解説

世良修蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 10:04 UTC 版)

世良 修蔵(せら しゅうぞう)は、幕末長州藩士。


注釈

  1. ^ この当時、既に準士分となっており、大野修蔵と名乗っていた。
  2. ^ 会津藩主・松平容保と会見し、その心情を伝えた仙台藩士・玉虫左太夫に対し「其方共ハ奥羽ノ諸藩中ニテ少シハ訳ノ分ルモノ故、使者ニモ使ハレシナランニ、扨々見下ゲ果テタル呆気ニコソ、左様ノモノ共ノ主人モ略知レタモノナリ、所詮、奥羽ニハ目鼻ノ明タ者ハ見当ラズ[3]」(『仙台戊辰史』)と罵倒したという[1]。『仙台戊辰史』は「東北新聞」紙上で新聞記者の藤原相之助(「東北新聞」の記者として明治41年(1908年)から『仙台戊辰史』を「東北新聞」紙上で連載し、大正2年(1913年)に「河北新報」の主筆[4])が連載した記事の書籍化で、かつて仙台藩第14代藩主であった伊達宗基題字「立誠」の書を、国語学者大槻文彦が「仙台舊臣」を強調した序文を、「鐵軒[5]」と号する富田鐵之助(仙台藩士日銀総裁を経て勅選議員東京府知事も務めた)が漢文の“引”と和文の“賛”を担当した。
  3. ^ 榴ヶ岡の花見において世良は『陸奥(みちのく)に桜かりして思ふかな 花ちらぬ間に軍(いくさ)せばやと』という句を詠んでいる[1]。『仙台戊辰史』によると、この慶応4年3月26日(1868年4月18日)の榴岡梅林亭での花見には、澤為量副総督、醍醐忠敬参謀、世良修蔵下参謀奥羽鎮撫総督府の諸隊長(薩摩藩と長州藩)等と、付添の朽木五左衛門(仙台藩の軍事参謀、近習目付[6])が参加したとされている[7]
  4. ^ 列藩同盟が起草した太政官建白書では「一身ノ挙動ニ至候テハ、貪婪無厭、酒色ニ荒淫、醜聞聞クニ堪ザル事件、枚挙仕リ兼」とあり、世良ら薩長の参謀達の態度を非難している[8]
  5. ^ 列藩重役による白石会議を経た閏4月12日、伊達慶邦上杉斉憲の両藩主により、会津藩家老名による『嘆願書』及び『会津藩寛典処置嘆願書』『諸藩重臣副嘆願書』の三通を九条総督に手渡している[11]
  6. ^ 閏4月17日、総督府は嘆願を却下し、早々に会津に討ち入ることを指示した。参謀の醍醐、世良等の意見は「二月中出陣に先立って大総督に伺った指令に容保は死罪とあること、また容保が果して真に恭順謝罪を願うとならば、諸国の兵を退け、開城して自ら軍門に来って謝するが至当であるのに、実情を見れば、却って現地交戦の状あるは顕著であるから、決して許容すべきものにあらず」と結論付けている[12]
  7. ^ 但し会津藩も仙・米両藩による恭順、開城の説得を簡単には受け入れないなど強硬的な態度であった。
  8. ^ 閏4月19日(6月9日)の午後5時近く、福島の旅館・金澤屋で、世良下参謀から書付を受け取った福島藩士・鈴木六太郎は、金澤屋の主人・齋藤淺之助らに向かって「(世良下参謀に)何でもお口に合う物を沢山(食べさせて)上げるのが宜しい」と強く言ってから帰って行った。その後、世良が夕食前に風呂に入ると、齋藤はいつもの通りに世良の背中を流しながら翌日以降の外出予定を尋ねたが、世良は「行かれなくなったよ」と返答した。齋藤は鈴木六太郎が帰り際に言った通りに、世良の夕食には彼の好物の「の(実の)甘煮」と「洗い」を出した。世良修蔵と長州藩士・勝見善太郎の寝所に、仙台藩士や福島藩士などが乱入したのは、閏4月20日(6月10日)の午前2時ごろだったという[14]
  9. ^ 世良ら鎮撫使は当初仙台藩を中心とする東北諸藩を会津攻撃の尖兵とする計画であったが、彼らが会津藩に同調的な態度を取ることまでは予想外であった。また総督府の兵力だけで会津藩、庄内藩と戦うのも困難であった。このような状況であったため「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と考え、その具体案が、江戸に居た西郷隆盛に接触すると共に京都、大坂の新政府軍の兵力を白河方面に結集させ、また酒田港へ船で援兵を派遣させ会津・庄内を挟撃するという計画であった[16]
  10. ^ 姉歯等は以前から世良襲撃を計画し数日前より彼を尾行していたが、全体への影響を考え実行に踏み切れずにいた。しかし密書の内容に、前後の事情を考慮出来なくなるほどに逆上したこと、世良が上記の計画実行のため江戸に出立しそうであったこと、等の事情から実行に踏み切った[17]
  11. ^ 会津征伐のため藩境の勢至堂口に布陣していた仙台藩・第二大隊長の佐藤宮内は世良の命令を無視し、会津藩士・木村熊之進と会い会津藩の世良暗殺計画を聞いた。列藩会議の結果、会津攻撃の中止が決まり白石に戻った佐藤は、仙台藩参謀の大越文五朗にこの計画を伝えた。大越は「世良ヲ誅スルハ奥羽ノ平和ヲ計ルニ於テ最モ必要」と上申した。大越の同意を得た佐藤は主席奉行の但木土佐に面談し、但木から「卿等之ヲ計レ」と指示されるに至った[8]
  12. ^ 世良を白石まで連行しようとしたものの、出血が酷く、福島で処刑することとなった[17]
  13. ^ 上記の通り、世良を殺害することは以前から計画されていたものである。
  14. ^ 金沢屋のあった福島城下、北南町は馬のセリ市で賑わう場所であり、北南町の旅籠には飯盛女と呼ばれる公娼が置かれていた[27]

出典

  1. ^ a b c , p. 17
  2. ^ 佐々木, p. 75.
  3. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『仙台戊辰史』320頁明治44年(1911年)7月4日発行 著作人:藤原相之助 発行人:仙台市国分町 士族 荒井安三郎 発行所:仙台市国分町 荒井活版製造所)
  4. ^ 『奥羽戊辰戦争と仙台藩』藤原相之助著 柏書房 1981年7月発行
  5. ^ 「海舟日記」に見る「忘れられた元日銀總裁」富田鐵之助 〜戊辰・箱館戦争後まで〜東北学院大学経済学論集 第182号、2014年3月、髙橋秀悦)
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『仙台戊辰史』958頁-961頁
  7. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『仙台戊辰史』318頁
  8. ^ a b , p. 32
  9. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『防長回天史』第6篇上 246頁
  10. ^ 「世良修蔵暗殺事件の周辺」(3)仙台藩と米沢藩の会津嘆願運動について
  11. ^ 佐々木, pp. 102–103.
  12. ^ 『岩手県史』第六巻 p.32
  13. ^ , p. 28.
  14. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『二本松藩史』148頁-149頁 (昭和元年(1926年)12月29日発行 昭和2年(1927年)1月10日再版発行 編纂者:戸城傳七郎 著者・発行者・発行所:二本松藩史刊行會)
  15. ^ 『岩手県史』第六巻 p34-35 『世良書簡』
  16. ^ 佐々木, pp. 106–107.
  17. ^ a b c 佐々木, p. 108
  18. ^ a b c 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』390頁-417頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月15日閲覧。)
  19. ^ 孤圓山 月心院跡の来歴
  20. ^ 『東北戦争』山田野理夫著
  21. ^ 佐々木, p. 114.
  22. ^ 佐々木, pp. 135–136.
  23. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『二本松藩史』148頁-151頁 「齋藤淺之助翁談話」(編著者・出版者:二本松藩史刊行會 再版発行:昭和2年(1927年)1月10日) (2018年10月12日閲覧。)
  24. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』459頁-463頁 復古外記 平潟口戦記 第三 明治元年8月29日 「廿九日、伊達慶邦、使ヲ肥後藩ノ營ニ遣シ、情ヲ陳シ、帰順ノ事ヲ請フ。」 (編著者:太政官、長松幹、藤川三渓 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月17日閲覧。)
  25. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『仙台戊辰史』745頁-773頁 (2018年10月17日閲覧。)
  26. ^ 木戸孝允関係文書 2』「18 明治元年9月11日 人五七」 273頁-274頁 (2007年2月28日発行 編者:木戸孝允関係文書研究会(代表 伊藤隆) 発行所:財団法人東京大学出版会
  27. ^ 『福島沿革誌』
  28. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.9


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