長州征討とは? わかりやすく解説

長州征討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 13:38 UTC 版)

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が、京都禁門の変を起こした長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐長州出兵幕長戦争長州戦争などとも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 福地源一郎は『幕府衰亡論』において、当時の詳細は伝聞と断りを入れた上で、成算も無く自薦で赴いて恥を晒しただけで終わったと酷評している
  2. ^ 3月16日に諸隊は奇兵隊((375名、吉田)、御盾隊(150名、三田尻)、鴻城隊または鴻城軍(100名、山口)、遊撃隊または遊撃軍(250名、須々万)、南園隊((150名、荻)、荻野隊(50名、小郡)、膺懲隊(125名、徳地)、第二奇兵隊(100名、石城山)、八幡隊(150名、小郡)、集義隊(50名、三田尻)へ再編され総員は1500名へ削減された。
  3. ^ 藩主親子の朝敵の名を除き、封地は10万石を削減、藩主は蟄居、世子は永蟄居、家督はしかるべき人に相続させ、三家老の家名は永世断絶。
  4. ^ この戦訓から、西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、かつ幕府の戦力は歩兵以外は役に立たないと判断した。以後の戊辰戦争まで続く幕府軍との戦いにおける戦力の根拠を、自軍1に対し幕府軍10と設定したほど幕府側戦力を非常に小さく見積ることとなった[11]

出典

  1. ^ 三宅紹宣『幕末・維新期長州藩の政治構造』p266
  2. ^ 第二奇兵隊は14日に大畠(遠崎)から笠佐島西岸へ上陸(大島側からは見えない)、15日未明に大島へ上陸し西蓮寺に本陣を置いた。
  3. ^ 『北九州市史 近世』 pp.896-899
  4. ^ 『北九州市史 近世』 p.900
  5. ^ 『北九州市史 近世』 pp.899-901
  6. ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.901-902
  7. ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.905-908
  8. ^ 『北九州市史 近世』 pp.909
  9. ^ 『北九州市史 近世』 pp.908-909
  10. ^ a b 『北九州市史 近世』 pp.910
  11. ^ 「史談会速記録」第29巻
  12. ^ #関山、p.p.63.
  13. ^ 原口清『原口清著作集2 孝明天皇と岩倉具視』


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