青木周弼とは? わかりやすく解説

あおき‐しゅうひつ〔あをきシウヒツ〕【青木周弼】

読み方:あおきしゅうひつ

[1803〜1864]江戸末期医学者周防(すおう)の人。名は「しゅうすけ」とも。江戸長崎蘭学学び、のちに長州藩医として種痘実施。著「袖珍(しゅうちん)内外方叢」「察病論」など。


青木周弼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/25 07:55 UTC 版)

青木 周弼(あおき しゅうすけ、享和3年1月3日1803年1月25日)- 文久3年12月16日1864年1月24日))は、江戸時代後期の蘭方医周防国大島郡和田村の地下医(村医)青木玄棟の長子[1]は邦彦で、周弼は字。号は月橋。

生涯

初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道オランダ語、臨床医を学び、その縁で宇田川榛斎にも師事した[2][3]。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。

天保10年(1839年)に長州藩医、天保13年(1842年)、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、安政2年(1855年)に御側医に昇進した。研藏とともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞した。

著書に「袖珍内外方叢」や「察病論」などがある。

明治36年(1903年)、従四位を追贈された[4]

山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。

脚注

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 5頁。
  2. ^ 青木周弼・研蔵生誕の地”. 周防大島町. 2010年3月3日閲覧。
  3. ^ 萩市観光課 (2009年10月23日). “青木周弼旧宅”. 萩市. 2010年3月3日閲覧。
  4. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.19

外部リンク

青木周弼旧宅 萩市観光協会公式サイト




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