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青木周三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/21 08:48 UTC 版)

青木周三

青木 周三(あおき しゅうぞう、1875年明治8年)8月26日[1] - 1946年昭和21年)12月1日[1])は、日本鉄道官僚貴族院勅選議員横浜市長

経歴

山口県大島郡久賀町(現在の周防大島町)出身。青木周哲の三男として生まれ、青木五百輔の養子となる[2]1898年(明治31年)第二高等学校卒業。1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科(英法)を卒業後、鉄道書記となり、1904年(明治37年)に高等文官試験に合格した[3]。その後、鉄道事務官、鉄道庁参事、鉄道院参事、鉄道院理事を歴任した。

1919年(大正8年)筑豊鉄道専務取締役[4]1921年(大正10年)横浜市電気局長に就任し、1923年(大正12年)には助役として関東大震災の対応に尽力した。1924年(大正13年)鉄道省経理局長に転じ、さらに鉄道次官に昇任し、1926年(大正元年)まで務めた。

退任後、1926年12月7日、貴族院議員に勅選され[5]、死去するまで在任[6]1929年(昭和4年)には鉄道次官に再任された。1935年、横浜市長に選出され、1941年(昭和16年)まで在任した。墓所は多磨霊園

家族

実父の青木周哲は大島郡 (山口県)久我村の勘場医(代官大庄屋の指示で宰判内でのみ活動する平民医師)[7][8][9]関東大震災で子供二人を失くす。長男の青木周吉(1907-1976)は、成蹊高等学校を経て、1934年に東京帝国大学を卒業し、日本興業銀行入行、1961年常務取締役に就任。1966年に東洋曹達工業副社長を経て1968年社長就任[10]。周吉の岳父に日学創業者の吉田富雄[11]。二女の峰子(1912年生)は天坊裕彦の妻[12]

栄典

脚注

  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、153頁。
  2. ^ 青木周三 『帝国大学出身名鑑』 校友調査会、1934年
  3. ^ 『神奈川県名鑑』p.421
  4. ^ 『全国市長銘鑑』p.96
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、54頁。
  7. ^ 『神奈川県史』人物編、1981年、p4
  8. ^ 『宮本常一著作集』 第40巻、未來社、1997年、p209
  9. ^ 御茶屋医・勘場医・地下医山口文書館
  10. ^ 青木周吉歴史が眠る多磨霊園
  11. ^ 『人事興信録』第42巻、第2号、2003、吉田富雄の項
  12. ^ 青木周三『人事興信録』第13版(昭和16年) 上
  13. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  14. ^ 『官報』第1284号「叙任及辞令」1931年4月14日。

参考文献

  • 『神奈川県名鑑』横浜貿易新報社、1935年。 
  • 『自治制実施五十周年記念 全国市長銘鑑』帝国自治協会、1938年。 
  • 『貴族院要覧(丙) 昭和20年12月増訂』貴族院事務局、1945年。 
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。

外部リンク


公職
先代
早速整爾
鉄道次官
1924年 - 1926年
次代
八田嘉明
先代
八田嘉明
鉄道次官
1929年 - 1931年
次代
久保田敬一



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