長州征討と慶応の軍制改革
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「幕府海軍」の記事における「長州征討と慶応の軍制改革」の解説
元治・慶応期は、幕府の海軍力が攘夷戦争用の軍隊から内戦用の軍隊に変質した時期とされる。元治元年(1864年)の第一次長州征討では、海軍部隊は派遣されなかったが、慶応2年(1866年)6月の第二次長州征討では海軍も投入された。海軍力に劣る長州側が正面からの海戦を避け、一撃離脱に徹したことから、海戦では特段の戦果はなく、物資輸送や部隊揚陸、艦砲射撃などが主となった。陸戦の劣勢のため、幕府軍にとって海軍の攻撃力は重要な役割を果たし、一時は戦況を挽回する原動力ともなったが、全体の劣勢を覆すには至らなかった。 第二次長州征討の敗戦後の慶応2年(1866年)8月以降、15代将軍徳川慶喜の下で再び大規模な軍制改革が行われた(慶応の改革)。幕府中枢への総裁制度導入により海軍局が設置され、従来の海軍組織の上に乗る形で老中格の海軍総裁が置かれた。また、軍艦奉行の上に海軍奉行が新設された。また一般士官についても、海軍階級俸給制度が確立された。 海外発注した新鋭艦も加わった幕府海軍の戦力は、国内の各藩の海軍力を遥かに上回った。「開陽丸」や「富士山丸」に匹敵する戦闘力を持つ軍艦は、他藩には存在しなかった。東アジア各国の中でも最大規模に達した。またイギリスからトレーシー顧問団を招聘したが、戊辰戦争の勃発により本格的な教育は実施できなかった。
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