長州正義派とは? わかりやすく解説

長州正義派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/15 08:52 UTC 版)

長州正義派(ちょうしゅうせいぎは)とは、幕末長州藩における派閥の1つ。

概要

第一次長州征伐後、長州藩内は幕府への抗戦派と恭順派に分かれて藩論が分裂した。抗戦派は正義派と呼ばれ、恭順派は俗論派と呼ばれた[1]。正義派の指導者は高杉晋作であり、功山寺挙兵を経て慶応元年(1865年)に高杉らが藩政を握ったことで藩論は尊皇倒幕で統一された[2]

正義派は、藩政改革を進めた村田清風を継いで改革派を率いた周布政之助の下、

などで構成されていた。

対する俗論派は、

などが代表格であった。

なお、正義派と俗論派との間の中間派(広沢真臣など)、両者の停戦に尽力した中立派(桜井三木三など)も、少数ながら存在していた。


抗争の過程

脚注

注釈

  1. ^ 俗論党」『精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉』https://kotobank.jp/word/%E4%BF%97%E8%AB%96%E5%85%9Aコトバンクより2022年11月14日閲覧 
  2. ^ 高杉晋作」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%9D%89%E6%99%8B%E4%BD%9Cコトバンクより2022年11月14日閲覧 

長州正義派

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)

功山寺挙兵」の記事における「長州正義派」の解説

詳細は「長州正義派」を参照 尊皇攘夷志向して藩政指導し京都八月十八日の政変ならびに禁門の変引き起こし長州存亡の危機陥れる。征長軍が迫る中でも藩政改革(主に軍備軍制改革)を主張し謝罪はすれども責任者処罰領地割譲断固拒否する武備恭順説いた。しかし、俗論派が藩政を握ると、高位正義派藩士多く投獄処刑される福原元僴長州藩家老益田親施長州藩家老国司親相長州藩家老格清水親知長州藩家老格宍戸真澂長州藩士山田亦介長州藩士前田孫右衛門長州藩士竹内正兵衛長州藩士毛利登人長州藩士松島剛蔵長州藩士中村九郎長州藩士佐久間左兵衛長州藩士大和弥八郎長州藩士渡辺内蔵太長州藩士楢崎弥八郎長州藩士周布政之助長州藩士

※この「長州正義派」の解説は、「功山寺挙兵」の解説の一部です。
「長州正義派」を含む「功山寺挙兵」の記事については、「功山寺挙兵」の概要を参照ください。

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