高杉の帰還決意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
また同日、野村望東尼の元に潜伏していた高杉は、月形洗蔵より長州正義派の家老が切腹された旨の手紙を受け取る。高杉は即座に長州へ帰還し俗論派を打倒する事を決意する。しかし多数の間者や征討軍に囲まれる長州への帰還は困難を極めた。月形らが帰国の世話をし、高杉は町人に変装して帰国することとなる。高杉を匿っていた家主の望東尼は、変装の衣服の用意を徹夜で行い、以下の歌を添えて送り出した。 まごころを つくしのきぬは 国のため 立ちかへるべき ころも手にせよ 高杉はこの心遣いに感激し、後に野村望東尼が乙丑の獄において、高杉ら脱藩浪士を匿った罪で姫島へ流刑になった際は人を遣わして奪還している。またその後に病に倒れた高杉を看病し、最期を看取ったのは望東尼であった。 11月22日、藩政府は諸隊鎮静御用掛として杉孫七郎を長府に派遣した。杉は若干の金銭を諸隊に与えたが、五卿の筑前退去を要求すると諸隊は激怒し拒否した。 11月23日、小倉に滞在する西郷は、五卿とその周辺の動向を観察し、五卿を守護するのは脱藩浪士のみではなく諸隊も含まれる事や、小倉に参集した諸侯が疲弊している事などを把握した。西郷は九州諸藩とも度々衆議を行い、五卿の長府退去について方策を話し合った。その結果、福岡藩による説得を第一とし、説得が決裂した場合にのみ武力行使をして五卿を奪還することが決められた。 11月25日、藩政府は椙杜駿河を長府へ派遣し、再度藩命として至急五卿を筑前に移送すべきことを伝えるも、諸隊は再び拒否した。
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