そんのう‐じょうい〔ソンワウジヤウイ〕【尊王×攘×夷】
尊王攘夷
尊皇攘夷
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尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を引き、結果的に水戸藩を裏切る形となった。 万延元年(1860年)に町田久成の要請を受け、伊集院郷石谷村(後の鹿児島市石谷町)を統治することとなった。新七は石谷村を治める間に、村における刑法を定め、悪事を働くものに罰として石坂(一部現存、鹿児島市の指定文化財)と呼ばれる道の建設にあたらせたり、郷士に五人組制を実施するなどの指導を行った。 その後も過激な尊皇攘夷活動を続け、同志達と共に寺田屋に集っていたところ、島津久光の「説得に応じずば上意討ちもやむなし」との命により鎮撫に訪れた大山格之助ら薩摩藩士らによって粛清された(寺田屋騒動)。この際、小刀が折れて相手の道島五郎兵衛の懐に入り壁に押し付けた状態で橋口吉之丞に「オイゴト刺セ、オイゴト刺セ」(俺ごと刺せ)として最期を遂げた。享年38。
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尊皇攘夷
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詳細は「尊王攘夷」を参照 文久3年(1863年)2月に尊攘派に推されて第9代岡山藩主となった池田茂政は、水戸藩主・徳川斉昭の九男で、一橋慶喜の実弟にあたるため、勤皇佐幕折衷案の「尊王翼覇」の姿勢をとって立場を明確にせず、慶応2年(1866年)12月慶喜が第15代将軍になると一切の朝幕間周旋の仕事から身を引いた。 慶応3年4月9日(1867年5月12日)国事周旋方・尊攘派の弘道は新庄厚信らと第二次征長軍に反対し、また藩主茂政に隠居を迫って、万成峠の矢坂台場から岡山城へ大砲の音を鳴らして威嚇する事件を起こした(備前勤皇党決起)。茂政より役目罷免・蟄居謹慎を命ぜられたが、周旋方軍事御用掛・牧野権六郎が執りなして謹慎は解かれた。
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尊皇攘夷
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青年期に太田稲香、僧月性、広瀬淡窓らの門下に学び、勤皇思想を身に付け、また久坂玄瑞らと知己となる。安政4年(1857年)に師月性とともに上京し、以後京都において梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、西郷吉之助らと交流を深めるが、翌5年(1858年)から始まった安政の大獄を受け急遽帰藩。幕府の手前もあり、藩命により蟄居を命ぜられる。その後脱藩して水戸に赴き、大老井伊直弼の襲撃を計画するが、未然に発覚して再び禁固に処せられる。 赦免の後、久坂、高杉晋作らと協力して積極的に尊王攘夷運動を推進。元治元年(1864年)5月には大和国丹波市(現在の天理市)において画家の冷泉為恭を暗殺。同年に起こった禁門の変においては書記として参陣。長州藩の敗戦を受けて再度山口へと逃れ、慶応元年(1865年)高杉の功山寺挙兵に呼応して宮市に忠憤隊を組織した。同2年(1866年)には、故郷台道に私塾敬神堂(別称西山書屋)を開設、明治2年(1869年)までに多くの門人を育てた(後の内閣総理大臣寺内正毅もここに学んだ一人である)。
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