津和野藩とは? わかりやすく解説

津和野藩

読み方:ツワノハン(tsuwanohan)

石見鹿足郡津和野藩名


津和野藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/13 02:05 UTC 版)

津和野城

津和野藩(つわのはん)は、江戸時代石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた。藩庁は津和野城に置かれた。

藩史

戦国時代、津和野は大内氏毛利氏に仕えていた豪族の吉見氏が支配していた。そのため、関ヶ原の戦いまでは毛利領であった。

坂崎家

慶長5年(1600年)10月15日の関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家の従兄弟坂崎直盛(宇喜多詮家)が秀家と不仲であったことから東軍につき、戦功により3万石にて立藩する。直盛は城下町建設、検地、城郭の大改修を行なって藩政の基礎を固めた名君であった。元和元年(1615年)、直盛は大坂の陣千姫救出に活躍し、元和2年(1616年)7月20日に1万石の加増を受けた。しかし9月11日、千姫事件の余波により、直盛は家臣により殺害され(自害したとも言われる)たため、坂崎氏は断絶した(末裔に中村家などがある)。

亀井家

代わって元和3年(1617年)7月20日、因幡鹿野藩より亀井政矩が4万3000石で入封する。以来、亀井家明治時代まで藩主をつとめた。初代藩主政矩は幕府の信任が厚く、一時は姫路藩移封の話もあったが、元和5年(1619年)に急死したため幻に終わった。第2代藩主茲政は幼少で後を継いだため、お家騒動津和野騒動)が起こったが、重臣の多胡真清による主導のもとで内紛を治め、藩政の確立に尽力した。

江戸への参勤交代には大坂まで海路を採ったため、元和6年(1620年)以後広島藩から土地を借りて安芸国廿日市桜尾城西側に津和野藩御船屋敷(廿日市蔵屋敷)を設けた。幕府天文方の津和野藩士堀田仁助は御船屋敷で生まれ、東蝦夷地の測量を行って伊能忠敬の先駆となった。

江戸中期には紙を専売とし、家老・多胡氏を中心に新田開発を行うなど、藩の財政は潤った。しかし、後期になると災害と凶作が続き、財政は悪化した。そのような中、第8代藩主矩賢藩校養老館を創立した。なお、養老館は現存している。

最後の第11代藩主茲監は藩政改革を実行し、有能な人材を登用した。また神道を信奉し、国学の発展に力を注いだ。長州藩の隣藩であったが、幕末の長州征伐に対しては中立を維持した。藩士の中には尊王攘夷運動に身を投じる者も多く、明治維新後には藩主の茲監、藩士福羽美静大国隆正ら多数の人材を新政府に輩出した[1]

明治になる直前の1867年(慶応3年)に江戸幕府に捕らえられた長崎浦上の隠れキリシタン158名が、直後の江戸幕府崩壊後、明治初期に禁教政策を引き継いだ新政府により各地に流罪にされ、その流刑先の一つが津和野であった(浦上四番崩れ事件)。明治4年(1871年)7月に詔勅された廃藩置県に先立って、茲監は廃藩建議書を提出し、同時に藩知事を辞職した。その後、浜田県への合併を経て島根県に編入された[1]

歴代藩主

坂崎家

外様 3万石→4万石 (1600年 - 1616年)

  1. 直盛

亀井家

外様 4万3千石 (1618年 - 1871年)

  1. 政矩
  2. 茲政
  3. 茲親
  4. 茲満
  5. 茲延
  6. 茲胤
  7. 矩貞
  8. 矩賢
  9. 茲尚
  10. 茲方
  11. 茲監

亀井家時代の重臣

  • 第一家老
    • 多胡氏 (200石ー300石ー500石)
  • 第二家老
    • 大岡氏
  • 重臣
    • 松井氏

幕末の領地

津和野藩出身の主な人物

関連人物

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
石見国
行政区の変遷
1601年 - 1971年
次代
浜田県

津和野藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:09 UTC 版)

江戸時代の日本の人口統計」の記事における「津和野藩」の解説

19世紀の津和野藩の人口構成について、旧津和野藩主亀井家第15代当主亀井茲建論文公表しており、士農工商割合を示すデータとしてしばしば引用される。 津和野藩の身分構成変遷身分地域職業文化2年1805年弘化2年1845年弘化3年1846年嘉永3年1850年嘉永4年1851年家中 5,464 5,164 5,200 5,296 5,296 津和野住居 5,078 4,859 4,902 5,021 5,012 江戸住居 272 211 198 174 179 大坂住居 22 19 24 25 25 廿日市住居 92 75 76 76 80 町方 2,540 1,923 1,949 2,048 2,038 在方 68,332 58,579 59,106 61,002 61,451 修験 22 22宗門修験家内 19 16 社人 144 142宗門社人家内 215 218 百姓 66,048 57,207 57,573 58,920 59,381 永明寺領虹ヶ谷村 102 93 91 96 91鍛冶屋 1,494 792 946 1,084 1,061 木地屋 83 24 25 0 10 穢多 590 461 469 502 506 番太郎 15 2 2 0 4 合計 76,336 65,668 66,257 68,346 68,785 男 39,763 34,512 36,00236,573 31,743 32,783典拠亀井茲建1932年)。)

※この「津和野藩」の解説は、「江戸時代の日本の人口統計」の解説の一部です。
「津和野藩」を含む「江戸時代の日本の人口統計」の記事については、「江戸時代の日本の人口統計」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「津和野藩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「津和野藩」の関連用語

津和野藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



津和野藩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの津和野藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの江戸時代の日本の人口統計 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS