弘前藩
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弘前藩(ひろさきはん)は、江戸時代に陸奥国の津軽地方にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。現在の青森県西部を領し、支藩として黒石藩があった。藩庁は弘前城(青森県弘前市)にあった。弘前への改称以前を高岡藩(陸奥高岡藩)、高岡移転以前を堀越藩ともいう。領地や藩主津軽家から、現代では津軽藩と呼ばれることもある[1]。
注釈
出典
- ^ 観光施設「津軽藩ねぷた村」など。
- ^ 津軽家文書『御日記方編』(弘前図書館蔵)
- ^ 『前代暦譜』
- ^ 『弘前市史』
- ^ 『南部根元記』
- ^ 赤穂藩の宗家である広島藩浅野家は素行が批判した朱子学を藩学とした。(朱子学以外の素行の古学などの教授は講学所への出入りが禁じられた。浅野家の講学所は、現在の修道中学校・修道高等学校)
- ^ 津軽藩の支藩(分家)である黒石藩(当時は大名ではなく旗本)の当主・津軽政兕は、事件直後に真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見したと伝わる。松浦静山『甲子夜話』にも類似の記述あり。
- ^ 津軽家文書『弘前藩庁日記』(国文学研究資料館ほか)
- ^ 『山鹿語類』には「主のために命を棄つるは愚かなり」「諫めても改めぬ主君なら臣より去るべし」と「士は二君に仕える」を肯定する箇所があり、素行自身も実践している。(『山鹿語類』君臣論)
- ^ 津軽信建は関ヶ原で三成の遺児・石田重成と荘厳院を救出、弘前藩主には石田三成の血をひくものがおり(津軽信義・津軽信政など)、浅野氏はその三成を襲撃した七将のひとりでもある。
- ^ 大石無人の次男の良穀も津軽家に仕えるをよしとせず出奔し、讃岐国高松藩松平家に仕官している。半稲独言集3『津軽兵庫の越境顛末 四代藩主信政治世の裏面史』(田澤正、北方新社、2007年)。
- ^ 明治政府『旧高旧領取調帳』
- ^ 同『各藩高並租税調帳』及び『藩制一覧』明治2年旧暦6月12日(1869年7月20日)
- ^ 「弘前候の厄、聞くも憂うるばかり也」と数頁にわたり同情が寄せられ、津軽氏は尊称だが、南部氏は呼び捨てになっている(松浦静山「甲子夜話続篇」 巻九十六、二三話「弘前候 逼塞の事 南部の話」)
- ^ 【おもてなし魅せどころ】弘前忍者屋敷(青森県弘前市)身隠す仕掛け、特命に思い『日経MJ』2021年3月22日(観光・インバウンド面)
- ^ “吉田松陰関係資料 > 山鹿素水詩文”. 山口県立山口図書館・山口県文書館 (1851年). 2020年2月8日閲覧。
- ^ 『乳井貢全集』(「志学幼弁」「五虫論」「王制利権方睦」など)
- ^ 「当主・晋様が御廟所参拝」(広報あじがさわ、2013年3月号)
- ^ 『山鹿流兵法』だけでなく津軽藩に一刀流の地盤を固めている。
- ^ 国道101号 大間越 青森県幹線道路協議会(2021年5月3日閲覧)
- ^ 『文政戸越村絵図』では「津軽大隅守」と記される(「品川区史」附図より )
- ^ 『青森県の歴史散歩』(山川出版社、2007年5月)
- ^ 『日本庶民生活史料集成 三』所収「東遊雑記」三一書房 1969年1月
- ^ 長谷川成一:近世津軽領の「天気不正」風説に関する試論『弘前大学大学院地域社会研究科年報』5, 2008年,p.134-154
- ^ 小説家・八剣浩太郎の所論(『歴史読本』第22巻第11号「特集 怪奇日本77不思議」)。
- ^ "貞享検地は、津軽領における最大の統一的検地で、貞享元年(一六八四)に始まり、同四年五月の検地水帳の完成によって完了した。" 弘前市立弘前図書館. 貞享検地. おくゆかしき津軽の古典籍. 2022-12-04閲覧.
- ^ "陸奥国津軽郡御検地水帳 TK611.2-1 ... 917冊" 弘前市立弘前図書館. (1984). 津軽家文書総目録. 弘前市立弘前図書館.
- ^ "極めて正確に厳正に調査記入されている事が分り、検地条令の通りに実施された事が考えられる。" 花田. (1962). 貞享元年の津軽藩の検地について. 法政大学史学会.
弘前藩(嫡流)
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山鹿素行-山鹿政実-山鹿高豊-山鹿高直-山鹿高美-山鹿高備-山鹿高補(素水)-山鹿高幸-山鹿高敏-山鹿高朗 津軽藩主の津軽信政やその後見人である旗本(黒石藩)の津軽信英は素行に師事し、津軽藩は1万石をもって素行を招聘しようとしたが実現せず、代わりに素行の子の政実が登用されている。政実はのちに津軽姓を名乗ることを許され、家老職家となる。素行から6代後の子孫に山鹿流兵学者として活躍した山鹿素水が出ている。 素行の嫡男・政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に政実はじめ家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる(休んで粥ばかり食べていたとするのは芝居などの創作)。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている。 山鹿素行=喜多村宗則-喜多村政方-喜多村久通-喜多村久敬-喜多村親守-喜多村久武-喜多村久隆-喜多村久盛-喜多村久孝 また、津軽藩士の喜多村宗則に素行の娘が嫁ぎ、宗則もまた津軽姓を許されて津軽政広と名乗り江戸家老となるが、若くして死去した。政広の遺児は素行の娘である母の手により山鹿流兵学や儒学を教育され、長じて津軽藩家老喜多村政方となる。政方の次男が国学者や画家として名高い建部綾足である。
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弘前藩(嫡流)
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津軽山鹿流伝系 山鹿素行→山鹿政実→山鹿高豊→山鹿高直→山鹿高美…山鹿素水→吉田松陰→木戸孝允 山鹿政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている。 政実の影響で津軽藩中の多くが赤穂浪士には批判的であり、津軽信政(実際は実権を得た津軽信寿および大道寺直聴の判断)により、赤穂浪士に同情した滝川主水を宝永5年(1708年)に閉門、知行没収の厳罰に処し、墓や供養塔の破却を命じている。また、重臣の乳井貢が素行に倣い朱子学を批判するのみならず、元禄赤穂事件をも激しく非難する著作を発表している 。 この系統から幕末に兵法学者として活躍した山鹿素水が出た。素水は、大垣藩士・小原鉄心、豊後岡藩士・鵜飼枝美など各藩の有力者に山鹿流を伝授した。また諸国放浪の際に九鬼隆都(丹波綾部藩主)に見いだされ、異例の知遇を得ている。 他に素行の2人の娘は三次浅野家の臣から津軽信政に仕した山鹿高恒と、のちに津軽藩家老になる門人、津軽政広に嫁した。
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弘前藩
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弘前藩は、宝暦5年には、夏中雨天続きで冷気が募った。雪の消えるのが遅く、4月から8月までやませが吹き、夏のさなかでも春の彼岸のような気候であった。8月中旬には2度の霜害があり、よく見えた田畑も立ち枯れてしまっていた。上磯・下磯、北・西津軽郡域の木造・俵元・広須の3新田では田畑の収穫は全く無かった。藩が10月に幕府に届けた津軽領内の損毛高は、表高4万6000石のうち3万4280石、新田19万6353石余のうち、16万1130石であった。 凶作への予想から6月ごろから米価は上昇し、7月になると大飢饉になるとまで予想された。藩の石高29万石余に対し、この年の収穫高は5万石弱で、領内は予想のとおり飢饉状態になった。10月に藩は、表高(本田高、本高)4万7000石のうち3万4280石の損毛高、新田高19万6353石余のうち16万1130石の損毛高だったと幕府へ報告している。 しかし、諸税の免除、検見の廃止、作取自由、幕府への救援米1万石の要請など、藩当局は積極的に対策を行なった。「一円の救合(すくいあい)」という方針を掲げて、各村内で貯米を確保させ、米の売買を厳禁して、藩で米価を設定して藩士や領民に配給した。大庄屋と運送方が穀物の買い請けと売り払いの両方を担い、遠い場所の村では「重立の者」を「下買」に命じて売買を扱わせた。さらに配下の手代・手付が在方を巡り、きびしく家探しをして有穀の調査をし、隠し米を摘発した。さらに、この年は年貢上納を全て免除して「作り取」りにし、米穀確保のため酒造禁止や菓子・餅・飴の類の作成を禁止した。このほか、幕府から1万石を拝借している。 一般に米の買い上げ政策は藩による収奪策として農民の反発を招くが、この時はそのようなことは無く、食料の再分配による公権力の積極的な飢饉対策であった。米の隠匿や不正行為は一部に見られたが、おおむね順調にことが運び、領民からは、ありがたき「御仁政」「徳政」と評された。弘前藩の「御救」ぶりのよさは他国の評判にもなり、公方より褒美として加増5000石を拝領したという噂が仙台領で流れた。 これらの政策は藩の宝暦改革の推進者である用人・毛内有右衛門や勘定奉行の乳井貢らが実施し、そのため寛延期の猪飢饉よりも被害は大きかったが、餓死者は1人も出なかったといわれる。 しかし、過去帳の分析により、飢饉が起きた宝暦期に、他の年代と比較して大量の死者が出ていたことが判明しており、それは餓死者ではないかと指摘されている。
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弘前藩 (津軽藩)
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「江戸時代の日本の人口統計」の記事における「弘前藩 (津軽藩)」の解説
以下に弘前藩の人口変遷を示す。但し統計に統一がなく、武家を加えた領内総人口と、武家を除いた領民人口の統計が混在していると思われるが、後者も領内総人口の項目にまとめた。 弘前藩の身分構成の変遷元号西暦領内総人口家中弘前町中寺社門前在方九浦合計男女宝永3年 1706年 154,323 4,754 149,569 寛延3年 1750年 151,072 宝暦6年 1756年 160,774 宝暦12年 1762年 174,035 明和元/2年 1764/65年 222,280 14,600 16,600 172,700 18,380 明和5年 1768年 195,064 安永3年 1774年 250,000 天明元年 1781年 246,822 129,888 116,934 16,974 16,847 4,166 189,742 19,093 寛政年中 1795年頃 143,399 73,107 70,292 12,923 10,814 784 107,600 11,278 寛政10年 1798年 169,892 寛政12年 1800年 173,863 89,283 84,580 26,730 132,847 14,286 文化元年 1804年 173,471 89,910 83,561 14,505 2,849 156,117 文化7年 1810年 189,721 14,928 10,498 1,934 124,640 12,899 文化13年 1816年 198,828 文政5年 1822年 206,004 文政11年 1828年 228,797 天保5年 1834年 239,741 124,180 115,561 21,048 3,424 215,269 天保7年 1836年 239,311 123,343 115,968 20,480 14,535 3,252 183,431 17,613 天保8年 1837年 21,004 天保11年 1840年 170,797 87,793 83,004 弘化3年 1846年 185,098 95,334 89,764 嘉永5年 1852年 204,664 105,973 98,691 嘉永6年 1853年 221,496 112,310 109,186 23,431 14,086 安政5年 1858年 204,380 105,837 98,543 14,850 安政6年 1859年 236,522 120,213 116,309 23,964 14,631 元治元年 1864年 227,042 116,962 110,080 慶応2年 1866年 255,273 131,289 123,984 21,926 16,061 明治3年 1870年 254,633 124,042 130,591 (典拠は『弘前市史』、『津軽史事典』)
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