喜多村宗則とは? わかりやすく解説

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喜多村宗則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/02 02:14 UTC 版)

 
喜多村宗則
時代 江戸時代前期
生誕 万治元年(1658年
死没 天和2年6月3日1682年7月7日
改名 北村宗則→喜多村宗則→津軽政広
別名 津軽政広、津軽監物、源八
墓所 青森県弘前市の貞昌寺
主君 津軽信政
陸奥弘前藩
氏族 北村氏→喜多村氏
父母 北村宗好
兄弟 滝川統伴、宗則
山鹿素行三女・鶴
政方
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喜多村 宗則(きたむら むねのり)は、江戸時代前期の弘前藩家老。別名、津軽監物津軽政広

生涯

津軽信政に小姓として召し出され信頼篤く、延宝5年(1677年)、藩主の命により姓を「北村」から「喜多村」に改め、500石を与えられた。同年12月26日、藩主の師である山鹿素行の三女・鶴との婚姻が決まり、翌年の正月26日結婚した。

延宝6年(1678年)、300石の加増で800石となり、馬廻五番組頭となり、延宝9年(1681年)、藩主・信政より「政」の偏諱を貰い「宗則」から「政広」と改めた。同時に津軽姓も許され、津軽監物政広と名乗る。

天和2年(1682年)正月、江戸家老に任命されたが、6月に江戸にて25歳で病没した。

嫡男・政方は父の死から2か月後の8月に出生した。父が藩主の寵臣であったこともあり、減封の上で同年11月に家督相続が認められた。

妻の兄弟の政実は延宝9年(1681年)に弘前藩に1000石で仕官、津軽姓を許され津軽大学と名乗り、のち家老職。

著書

  • 「戦略応変」
  • 「家伝綱領要集」

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社



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