喜多村政方とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 喜多村政方の意味・解説 

喜多村政方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/02 02:13 UTC 版)

 
喜多村政方
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 天和2年(1682年8月
死没 享保14年2月1日1729年2月28日
改名 平十郎(幼名)→政方
別名 津軽正方、北村正方、監物、校尉、長命、開雲堂耕雲、一花翁
墓所 青森県弘前市の貞昌寺
主君 津軽信政信寿
陸奥弘前藩
氏族 喜多村氏
父母 喜多村宗則山鹿素行三女・鶴
大道寺友山娘・衛子
久通建部綾足
テンプレートを表示

喜多村 政方(きたむら まさかた)は、江戸時代前期から中期にかけての弘前藩士。北村正方、津軽正方、津軽校尉とも。

生涯

天和2年(1682年)6月の父・喜多村宗則の死から2か月後の8月に出生した。宗則が藩主・信政の寵臣であったこともあり、同年11月に家督を継ぐことが認められたが、幼年過ぎるとして百人扶持に減らされた。

母は儒学山鹿素行の娘であり、四書五経など全てを政方に叩き込んだ。その結果、政方は祖父の始めた山鹿流兵学を始め、儒学などにも精通するようになった。この間も信政はなにかと目をかけている。元禄8年(1695年)、800石を頂き、元禄15年(1702年)に手廻三番組頭。同年、江戸詰めの時に元禄赤穂事件が起こり、母方の伯父・山鹿政実(山鹿素行の嫡男)と共に、津軽政兕に従い吉良邸に駆け付け負傷者を救助している[1]

宝永6年(1709年)3月12日、本家で父方の叔父にあたる津軽藩家老職の瀧川統伴(北村統伴)が所領没収の上で隠居処分された。宝永7年(1710年)10月18日、信政死去。正徳元年(1711年)2月8、9日、報恩寺での信政の百箇日の法要の惣奉行を政方が勤めた。

正徳5年(1715年)、200石加増。津軽監物と名を改め、津軽藩家老職となった。享保6年(1721年)には校尉と改めている。

祖父・山鹿素行の「原流発機」を藩主に講義したり、藩政では自ら新田を巡視したり、領内の古資料の収集に努めるなど活躍した。享保10年(1725年)より藩命を受け「津軽一統志」の編纂を始めた。享保12年(1727年)には家老職を継ぐであろう長男を連れて、領内全てを巡察している。詩文にも優れ、東海道紀行の詩稿が有名。詩集3冊、文稿1冊を出している。「武治提要」など著作は33部あるとされる。

享保14年(1729年)1月16日、藩による大規模な狼狩りが行われた。総人数7,000余の大将を勤めた。直後の2月1日に病没。享年48。「津軽一統志」の完成(享保16年完成)を見ることはなかった。

同年8月28日、長男の久通が跡を継いだ。

系譜

著書

「戦略応変」、「兵機全集」、「兵法大意問答」、「講武堂茗話」、「七書便儀」、「武治提要」、「山鹿誌」、「大学解義」、「武教衛葵録」、「原源発機句読大全」、「築城大源発秘図録」、「甲陽戦略便儀」、「寒燈随筆」、「略四書分類」、「輔佐要論」、「天地図説」、「家伝綱領要集」など三十三冊。

脚注

  1. ^ 乳井貢「志学幼弁」・松浦静山「甲子夜話」など。

参考文献

  • 「青森県人名大事典」1969年、東奥日報社

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「喜多村政方」の関連用語

喜多村政方のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



喜多村政方のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの喜多村政方 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS