赤穂事件
赤穂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 08:24 UTC 版)
元禄14年(1701年)3月14日には、江戸城内で吉良義央が赤穂藩主・浅野長矩に傷つけられる事件が起こり、事件後に綱憲は生母・富子を屋敷へ引き取っている。翌年(1702年)12月14日に赤穂浪士による吉良邸討ち入り(赤穂事件)が起こった。 『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどでは、父のために援軍を送ろうとする綱憲に対して家老の色部安長または千坂高房がこれを諌める場面が描かれる。しかし、色部安長は実父の忌日で上杉家に出仕しておらず、千坂高房に至っては2年前にすでに他界していた。この日に綱憲を止めたのは家臣ではなく、幕府老中からの出兵差止め命令を綱憲に伝えるべく上杉邸に赴いた、遠縁筋の高家・畠山義寧であった。 こうした事情を知らない庶民は、討ち入りを行った赤穂浪士を義士として持て囃す一方、討ち入り後に行動を起こさなかった米沢藩の態度を不甲斐無いと見なした。そのため上杉謙信以来の武門の名家の名声は地に落ちて、江戸市中には「上杉のえた(枝)をおろして酒はやし 武士はなるまい町人になれ」「景虎(謙信)も今や猫にや成りにけん 長尾(謙信の実家)を引いて出(いで)もやらねば」などという落書が大量に貼られた。 他方で討ち入り事件は、綱憲一人にとっては大事な故家の危機ではあっても、藩士にとっては他家の不始末と受けとめられたに過ぎなかった。結局、自藩を断絶の危機へと追い込む行動には誰も賛成していなかったため、出兵しないのは“自発的な行動”と外部からは見られるほど、幕令は藩士たちには当然なものとして受け入れられたと言われている。
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赤穂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:15 UTC 版)
元禄14年(1701年)3月14日には分家の赤穂藩主浅野長矩が吉良義央に刃傷に及んで改易切腹となった。この後、綱長は本家に対する連座を恐れ、用人井上正信らを赤穂藩に派遣して、赤穂浅野家筆頭家老である大石内蔵助に「穏便に開城を」と迫った。開城後も赤穂浪士らによる吉良家への討ち入りを止めさせるべく、足軽頭の進藤俊重などを派遣して進藤俊式や小山良師らを説得して同志の盟約から抜けさせるなど、一党の切り崩しを図ったが、結局、翌年12月15日に赤穂事件が発生する。 その後、良雄の三男・良恭(連座を避けるため、当時は石束良武)をはじめ赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。藩では、浅野家との婚姻により大石家を一門化しようとしたがことごとく失敗し、次第に大石家への不信を高めていく。
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赤穂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 07:23 UTC 版)
元禄15年(1702年)12月15日早朝、吉良義央を討ちとり主君浅野長矩が葬られた高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士46名のうち(47人目の寺坂信行は討ち入り後に隊から外れたと見られる)、吉田兼亮・富森正因は一行と別れて大目付仙石久尚の屋敷へと向かい、自首手続きを行なった。なぜ彼らが久尚に対して自首(犯行の届け)をしたのかについては諸説あるが、仙石家が浅野家の遠縁であったためである、とする説がある(久尚の兄、仙石久信の妻は安部信盛の娘であり、この信盛の曾孫安部信峯は浅野長矩の従兄弟)。 久尚はこの両名から事情を聞いた後、家老の井上万右衛門に聴取書を作らせ、吉田・富森をそのまま仙石邸へ置いて、自身はまず月番老中稲葉正通邸へ立ち寄った後、江戸城へ登城し幕閣に報告した。また、故・吉良義央の子吉良義周からも赤穂浪士が吉良義央邸に討ち入ってきた旨が稲葉邸に届け出られ、泉岳寺からも寺社奉行の阿部正喬を通して、また町奉行松前嘉広からもそれぞれ報告があったために大方の書類は出揃った。老中の評議の結果、ひとまず赤穂浪士は細川綱利・松平定直・毛利綱元・水野忠之の4藩に分割してお預け、とすることが決まった。午後6時頃、仙石は、部下の徒目付の石川弥一右衛門、市野新八郎、松永小八郎の3人を泉岳寺へ派遣し、赤穂浪士に対して一旦全員を仙石邸へ移送するよう指示した。仙石邸での取り調べの後、赤穂浪士にそれぞれの預かり先を言い渡した後、仙石邸から4藩に引き渡した。 幕府では、幕府評定所(大目付4人=十里四方鉄炮改兼帯・仙石久尚、道中奉行兼帯・安藤重玄、宗門改加役人別改兼帯・近藤用章、服忌令分限帳改兼帯・折井正辰、寺社奉行3人=永井直敬、阿部正喬、本多忠晴、何れも奏者番兼帯、町奉行3人=南町・丹羽長年、北町・保田宗郷、中町・松前嘉広、勘定奉行4人=佐渡奉行兼帯・荻原重秀、公事方道中奉行兼帯・久貝正方、戸川安広、中山時春で構成)が設置され、赤穂浪士の処分について議論された。 赤穂浪士は2月3日に切腹と決定され、4日に切腹が4藩で実施された。ただし、同時に評定所は吉良義周を呼び出し、討ち入りの際の義周の行動が「不埒・不届き」であったとして吉良家を改易にしている。
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