赤穂事件で斬死とは? わかりやすく解説

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赤穂事件で斬死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)

吉良義央」の記事における「赤穂事件で斬死」の解説

12月15日未明に、大石始めとする赤穂浪士四十七士吉良邸に討ち入った当時吉良邸には、諸説あるが『桑名藩所伝覚書』に「上杉弾正様より吉良佐平様へ御附人之儀、侍分之者四十人程、雑兵百八十人程参居申候よし」とあるように、上杉家(米沢藩)から220人ほどが派遣されていて、義央の警固にあたっていたとされる討ち入った赤穂浪士はまず、家臣達が寝起きする長屋戸口かすがい打ちつけ吉良家家臣達が出られないように工作行った。そのため、戸口破って応戦したり、逃亡した数名除いて長屋から出なかった者達(用人1人中間頭1人徒士の者5人、足軽7人、中間86人)と赤穂浪士らに抵抗しなかった裏門1人合計101人には、死傷者は出なかったとされる赤穂浪士らの襲撃に気づいた吉良家の者達は、この時の当主・義周をはじめとした吉良家40名ほどが防戦にあたりその間に、義央は寝所から二人の供を連れて台所横の炭小屋隠れた赤穂浪士らは吉良家家臣達と戦いながら義央の捜索あたったものの、容易に見つけることはできなかった。しかしながら、義央の寝所にたどり着いた赤穂浪士のうち、茅野和助夜具手を入れ、まだ夜具温かい事を確認すると、赤穂浪士らは義央が寝所から離れてそう時間経っていないと判断し、再び捜索あたった。 そして、吉田兼亮間光興らが、台所横の炭小屋から話し声したため、中へ入ろうとした。すると、炭小屋にあった皿鉢や炭などが投げつけられ赤穂浪士らに向かって2人吉良家臣が斬りかかってきた。そのため、その二人切り伏せ、炭小屋内を調べると、奥で動くものがあり、間光興突いた間光興突いたのは 寝所から逃げてきた白小袖姿の義央で、義央は脇差抜いて抵抗したが、武林隆重斬り捨てられ、首を討たれた。享年62(満61歳)。

※この「赤穂事件で斬死」の解説は、「吉良義央」の解説の一部です。
「赤穂事件で斬死」を含む「吉良義央」の記事については、「吉良義央」の概要を参照ください。

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