赤穂城引き渡し
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これらの議論が行われるのと並行して、収公に向けた手続きが行われた。 まず、藩札の引き換えの方針が早々に決定された。藩庁は、藩札の交換レートを六分、つまり額面価格の6割と定め、改易の報が赤穂に届いた翌20日から換金に応じた。この比率は他の藩札処理の事例と比べて破格の高さであった。このとき大石内蔵助は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにした。広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断ったという説もあるが、赤穂改易後に広島藩は鴻池家からの借財が桁違いに増加している。また、延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている。この件に限らず広島藩は、自藩に累が及ぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けた。 そして、城に収められた武器については、城付き武具のほかは売り払いの許可がでたため、浅野家が赤穂入藩時に、改易となった池田輝興から引き継いだ分の武器以外は、大坂の商人が落札した。 これらの実務作業のほか、必要とされる書類については、元禄7年(1694年)の備中松山藩の転封の際に浅野内匠頭が受け取りを担当、大石以下赤穂藩士もこれに関わっていたため、書類作成もスムーズに進んだ。 4月19日、幕府派遣の受城目付荒木政羽・榊原政殊、代官石原正氏、受城使脇坂安照・木下㒶定立会いの下、赤穂城引き渡しが完了した。この引き渡しは特に厳戒態勢で行われ、脇坂・木下がともに軍勢を引き連れてきたほか、近隣の岡山・姫路・明石・徳島・高松・丸亀・松山の各藩が陸上・海上に軍勢を展開させた。 その後も大石ら一部藩士は遠林寺会所を間借りして残務作業を続け、5月18日に全ての書類引継ぎが終了した。同日、奉行・小役人に魚料理が振る舞われ、士分のものには金子が渡された。 赤穂城は脇坂家預かりとなったが、のちに在番中の重臣が突如乱心して刃傷事件を起こし、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。この際に、赤穂事件までの浅野家治世資料が龍野に持ち去られ、現在もたつの市が所有し続けている。
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